泡坂妻夫 死者の輪舞 目 次  一章 勝を見た死  二章 死出の報復  三章 複合の事故  四章 故殺の規定  五章 定員は六名  六章 名は古里へ  七章 変調円舞曲  八章 曲説の奇勝 一章 勝を見た死     一  足元に屍体が一つ転がっている。  洗い晒《ざら》しの半袖シャツに膝の抜けたズボン。無精髭《ぶしようひげ》を生やした六十前後の男で、無論、進介の知らない顔だった。屍体はコンクリートの床の上にうずくまり、よれよれの背広が打ち掛けられている。背広は被害者が死ぬ直前まで腕に抱えていたものだ。背広から出ている足は新聞紙で覆われているから、その下に屍体があるのを知っているのは進介と四人の警備員だけだ。  注意して見ればかなり不自然なごみの山だったが、場所がちょうど柱の傍だ。五人の男が屍体を背にして囲んでいるので、それに気付く者は誰もいない。  第十レースの曲垣《まがき》賞が終ったばかり。今迄、立錐の余地もなかった一階正面スタンドが徐徐に楽になっていく。沸き返った興奮のほとぼりを残しながら、観衆の流れは下見場《パドツク》へ、馬券売場へ、払戻所へ、出口へと思い思いに散り始めたのだ。  進介はその場所を動くことができない。場内アナウンスが聞きたくもない曲垣賞の結果を告げる。 「……単勝式一番、複勝式一着一番、二着五番、三着八番、連勝式|勝馬《かちうま》番号一番四番……払戻金、単勝式一番六百|十《とお》円、複勝式一番二百二十円、五番百八十円、八番二百六十円……連勝式一番四番一万四百三十円……」  進介は唇を噛んだ。これで完全に文無しになってしまったからだ。  久し振りの東京競馬場だったが、これほど目が出ないとは思わなかった。駄目なときはいつもこうで、最初から取られ続け、目当ての曲垣賞には資金が底を突いた。仕方なく圧倒的一番人気のヒダノケンパイに寄り縋《すが》って多少でも元を殖やし、最終レースに全てを賭けようとしたのだが、ブラックマジックに根こそぎ持って行かれた。  知らず知らずのうちにいつものパターンに巻き込まれたのは、付きがないというより不吉な禍いに取り付かれたとしか思えない。その証拠に、勝負が決した次の瞬間、わけのわからない屍体が進介の背に負《おぶ》さってきたのだ。  同じ制服を着た警備員が二人で器材を抱え、人混みを掻き分けながら近付いて来るのが見える。 「今、警察の詰所に連絡して来ました。先《ま》ず、被害者の上にテントを張ります」  傍を通り過ぎる観客の中には、足を止めて警備員の仕事を覗き込む者もいる。しかし、警備員の手際はよかった。屍体を隠すように防水布を拡げ鉄パイプを立て、手早くテントを組みあげた。  そこへ、詰所の警察官三人と救急車付きの医師が前後して到着する。 「警視庁特殊犯罪捜査課の者です」  進介は警察手帳を示した。 「たまたま、この現場に居合わせたのです。凶行は僕の背後で行なわれました」 「そ……それは。特犯の方の背後で——」  警察官は戸惑ったように言った。 「とにかく、テントの中に入りましょう」  進介は先にテントをくぐった。警察官と医師がそれに続く。 「これです」  進介は屍体を覆っている新聞紙を片寄せ、上着を取り退けた。最初に、凶器が見えた。  俯せの右|肩胛骨《けんこうこつ》の下側、シャツの上から深深と刃物が突き立てられている。凶器は白鞘《しらさや》の合口《あいくち》だが、刀身のほとんどが刺し込まれ柄《つか》を残すばかりだ。  医師は被害者の傍にかがんでペンライトを瞳孔に当て脈を診ていたが、すぐに立ち上がった。 「……完全に死んでいますね。刃物は心臓を串刺しですから、恐らく声も立てられなかったでしょう」  医師は改めて傷口を見て、感心したように何か言い、テントを出て行った。  警視庁捜査課に配属されて、最初に出会った他殺屍体だったが、進介は割に落着いていられた。傷口からの出血が少ないのと、周囲には夥《おびただ》しい観衆がひしめいているからだ。  場内アナウンスは優勝者表彰式の開始を告げていたが、しばらくすると観客の呼出しに切り替わった。  何気なく聞き逃がしていた進介の耳に、いきなり知った名が飛び込んできた。 「……三鷹市のウミカタフサナリ様、いらっしゃいましたら近くの受付までお越し下さいませ。急用のお電話が入っております。三鷹市のウミカタフサナリ様……」  進介は耳を疑った。  三鷹に住むウミカタフサナリといえば海方惣稔《うみかたふさなり》しか考えられない。珍しい名だから同名異人の可能性はまずない。  進介の脳中に青黒く鼻先きの尖った海亀の首がぬっと伸び、進介を嘲笑《あざわら》うような表情をしてから消えていった。  進介は頭を抱えたい気持になった。  十万人もの観衆の中に海方が混じっていることに不思議はない。しかし、毎日毎日嫌になるほど海亀頭と顔を突き合わせ、やっと祭日の休暇が取れてやれやれと思い、海亀頭を忘れるために馬を見に来た日、またまた海亀頭を見なければならない運命だとは、仏滅と十三日の金曜日と天中殺が折り重なって殺到して来たような思いだ。  馬場からブラスバンドの吹奏が聞こえてくる。表彰式が始まったようだが、見に行くこともできない。仕方なく、被害者が持っていた上着のポケットを探ってみる。  左のポケットには競馬新聞とメモがねじ込まれている。右のポケットには裸の鍵、景品のボールペン、煙草、使い捨てライター、小銭。内ポケットは空《から》で紙入れも定期券もない。上着にはネームも入っていない。念のためズボンのポケットも探ったがどちらも空。身分を証明するような品は何一つ持っていない。  被害者が所持している金額は進介と似たようなものだったが、手帖も名刺も持っていないのが不自然だと考えていると、被害者の右掌に場内発行の馬券が握り込まれているのに気付いた。 「10R14」という数字が見える。被害者は死の直前、十レースに連勝式の一—四の券を求めたのだ。 「……もしかして、一—四は勝じゃなかったですか」  と、進介は警備員を見渡した。変に顔の長い一人が答える。 「そうです。一—四が勝ちましたよ」  進介は再び被害者が握っている券に目を移した。 「この男はその一—四の券を一万円分も持っていますよ」 「ほう……」  テントの中にいる全員が嘆声を上げる。 「一—四の倍率は?」 「正確なことは判りませんが、大変なことになっているんじゃないでしょうか。何しろ、今日は昨年のダービーと春の天皇賞を取ったヒダノケンパイの人気が圧倒的でしたから」 「ちょっと、見て来ます」  進介は急いでテントを出て、電光掲示板の下に立った。  何と、一—四の配当は一万四百三十円に上っていた。一万円券を持っている被害者は百四万三千円の現金を握っているのと同じ勘定だ。  進介はポケットに六—八の券があるのを思い出し、散散に千切って捨てた。  テントに戻ろうとして、ふと指定席専用のエレベーターに目が行った。今、一階にエレベーターが着き、ドアが開いたところだった。箱から多勢の人が吐き出されたが、その先頭に海方惣稔の顔があった。     二  これほど初対面の印象が悪かった男は珍しい。  進介の人生中、最悪。将来、これ以上悪い男と出会うことも考えられない。といって、初対面で海方が別にどうしたというのでもない。要するに、虫が好かないのだ。  進介は大学を卒業して、地方の管区警察局保安課に三年勤務したが、この年配置替えになって警視庁刑事部特殊犯罪捜査課に配属された。そのとき、特犯の古参刑事として引き合わされたのが海方だった。  鼻が高い、というより顔全体が前方に尖った感じで、海方は自分の前にいる三河特犯課長と進介を代る代る見較べていたが、その頭の動きが海亀そっくりだった。顔ばかりでなく、海方の胴体が丸く大きく、対するに手足が変に短いことも海亀を連想させる役目をしていた。  海方は最後に、ぬうと進介の方に首を伸ばし、 「まあ、これからは一緒に仲良くやろうや」  と、濁ってぞりぞりした声を出した。  その晩、酒を付き合わされたが、これが良くない酒呑みだった。  酔うと節操がなくなる男で、自分が警視庁で一番偉くなってしまい、最後には空気の中で泳げるものと錯覚したようで、所構わず横になって手足を動かす。  その重い身体を三鷹にある家まで運び込むのも一苦労だったが、海方の女房が相当な不器量の上に性格も悪いとみえて、折角送り届けたのに有難うの一言もない。ぼさぼさの髮の毛を逆立てたまま出て来たと思うと、正体がなくなっている海方をいきなり張り倒し、そのままドアを閉めてしまった。  そのうちに判って来たのだが、海方の評判はどこで聞いても芳《かんば》しくない。物臭《ものぐさ》で横柄、賭博好きで吝嗇《りんしよく》というのが一致した評価だった。しかし、刑事部の経歴は誰よりも長いから、角山刑事部長さえ一目置いて、海方の前に出ては何も言うことができない。結局、進介が海方のお守《も》り役を押し付けられたのだ、と判るまで長い時間は掛からなかった。 「おう、小湊《こみなと》君。早かったじゃねえか」  エレベーターから出て来た海方は、妙ににやにやした顔で進介の方に歩いて来た。  いつもの制服じみた紺の背広で、突き出した大きな腹の上にネクタイを垂らしている姿は、職権を利用して指定席へ割り込んでいたとしか思えない。 「いえ、僕は午前中から馬を見に来ていたんです」  と、進介が言った。 「ほう……君は馬が好きだったのか」 「たまに、気晴らしで来ます」 「気晴らしか。なるほど、今日は文化の日で晴天。若えうちは優雅だの。俺は儲けのためにやって来る。言わば仕事の内だ。だが、ここで事件とは大きに迷惑だ」 「僕も同じです」 「知らん顔をしときゃよかった。俺が今日ここにいるのは課の連中が知っているから逃げられねえが、小湊君なら大丈夫だった」  平気で悪い智慧《ちえ》を付ける。 「そうはいかなかったんですよ。刺された被害者が、前にいた僕に抱き付いたんですから」 「すると……君が第一発見者か?」 「そうです」  海方は真顔になって進介の顔を見ていたが、 「……違うようだな」  と、つぶやく。 「何が違うんですか」 「……君が殺《や》ったんじゃねえらしい。臭わねえからの」 「当たり前ですよ。どうして僕を疑うんです?」 「たまさか、第一発見者が怪しい、というときがあってな。まあ、予想でいうと三角印だ」 「馬と一緒にするんですか」 「はは、一緒にしちゃ馬に気の毒だった。馬は仲間を殺さねえからの」  減らず口に構ってはいられない。テントに案内しようとすると、 「まあ、急ぎなさんな。屍骸は逃げては行かねえ」  と、投票所の方を見る。最終レースの発売が始まったところだった。 「今度のレースは三—五だと思うが、どうだ?」 「……僕には判りません」 「や。小湊君は見るだけかい」 「いえ、ずっと買い続けて来たんですが、さっきで完敗しました」 「だったら、ちっと貸そうか。利息はきちんと頂くから遠慮しねえでいい」 「いえ、遠慮しましょう。今日は諦めました」 「そうかい。じゃ無理には勧めねえが、最終レースは三—五。単勝なら三番だぜ。今日の成績はいいんだ。こういうときは押すだけ押しておかねえとな」 「じゃ、曲垣賞も取ったんですか」 「有難く頂戴しましたよ」 「被害者も、その一—四を一万円分握っていましたよ」 「……ほう、似たようなこともあるな。三年前の事件じゃ、被害者は野郎のきんを握って死んでた」  進介は仕方なく海方に付き合った。  場内テレビのオッズ表示では、三—五、38倍となっている。何だか半端な数字だったが、考えた末というより、矢張り吝嗇の現れとしか考えられない。  その海方も、テントの中の屍体を見て緊張するかと思うと、そうではない。尖った鼻であしらうように屍体を眺めただけで質問もしない。  そこへ、調布署の捜査課長を初め、担当の職員、鑑識官などが到着、すぐ本格的な現場検証が開始された。  競馬場詰所の警察官から事情を聞いた調布署の捜査主任は進介の傍に来た。 「小湊さん、といいましたね。あなたが事件の第一発見者だそうですね」 「はい」 「そのときの事情を精《くわ》しく説明して下さい」  進介はテントを見廻した。いつの間にか肝心の海方がいなくなっている。 「ああ、あの亀さんね」  進介の心を読むように主任が言う。 「亀さんのことなら心配いりませんよ。彼は、いいでしょう。私が知り合った当時からああです」  どういいのか判らなかったが、進介は心残りのまま主任を相手に話し始める。 「被害者が刺されたのは今いるこの場所です。被害者は刺されてから動いたとしても、二歩も歩かなかったでしょう。人で身動きもできない状態でしたから。僕はちょうど被害者の前に立っていたようです。時刻は十レースの馬がゴールに入った直後でした」  主任は被害者のポケットにあった競馬新聞を拡げた。 「……第十レースは三時三十五分発走。後で十レースのタイムを参考にすれば、秒単位で凶行時刻が判りますね」  その瞬間、ゴール前の正面スタンドの観衆は熱狂の坩堝《るつぼ》と化していた。  本命と目されていたヒダノケンパイは予想に違《たが》わず先行集団のトップを切っていたが、四コーナーのカーブで突然ブラックマジックとウロタエジロウが襲い掛かった。美しく鋭い伸び足だった。直線コースに入ると二頭は先行集団を割り、次々にゴボウ抜きにしてゴールになだれ込んだ。そのとき、背後で「南無」という声が聞こえた。  大喚声の中で、最初、進介は自分の背中に重みの掛かったのが気にならなかった。しかし、熱狂した観客の行為にしては執拗《しつよう》だった。進介は身体を横にねじった。すると、背中にもたれていた人間がずるずると崩れ落ちてきた。進介の足元に折れ曲った男の背に刃物の柄が突き立っていた。  進介は振り返った。中年の男と目が合った。  ——君、見ましたね?  ——見たとも、畜生。べら棒だあ。  男は馬券を引き裂いた。進介は隣の男の腕を取る。  ——君はどうです。見たでしょう?  ——どうもこうもあるかい。叩き殺されてえか。  目の色が変わっている。すでに、何人かはスタンドを後にしている。  警備員の姿が見えた。進介は夢中で手を振った。 「……つまり、誰もが馬に夢中で、凶行を見た者は一人もいなかったというんですね」  と、主任が訊いた。 「そうです。何しろ、この観衆でしょう。人が殺されたことが知れればどんなパニックが起こるか判らない。そう考えて、咄嗟《とつさ》に被害者が持っていた上着で凶器を隠すことにしたのです」 「適切な処置でしたね。それでは凶行の前ですが、この男に気付きませんでしたか?」 「……全く」 「周囲で普通とは違う人の動きなどは?」 「……特になかったようです」  たとえあったとしても、目もくれなかったろう。隣に爆弾が落ちたって、観衆はヒダノケンパイから目を離すことができなくなっていたのだ。恐らく何人もの掏摸《すり》もこの瞬間を待ち受けていたはずだ。 「とすると、喧嘩や物盗りなどではなく、凶行はかなり計画的だったと考えられますね。おや……」  主任は被害者の方を見て言葉を切った。  撮影が終って、一人の職員が屍体を動かしたところだった。屍体の下に血溜りのようなものが見えたが血ではなく布のようだった。 「——帽子ですね」  職員が拾い上げて主任に示した。平たく潰《つぶ》れた真っ赤な野球帽だった。 「名前は?」  職員は帽子の表裏を改める。 「……付いていません」  結局、最後の遺留品にも被害者の身元を示すものが見当たらないのだ。 「かなり、派手な色ですね」  主任は帽子を手に取ってひねり廻し、 「この帽子をかぶっていれば、人混みの中でも目に付き易い」  と、頭をひねっていたが、進介に声を掛けた。 「というようなことを亀さんに伝えて下さい。どうやらこの事件は亀さん好みのようですから」  亀さん好み、という意味がよく判らないまま、進介はテントの外に出た。  スタンドは少しずつ空《あ》き始めているが、まだ楽に歩けるほどではない。進介は苦労して、やっと最前列の柵にしがみ付いている海方を見付け出した。海方は小さな双眼鏡でスタートの方を見ていた。 「赤い帽子が発見されました」  と、進介は言った。 「勿論、三番なら赤い帽子さ」  海方は双眼鏡から目を離しもしない。 「騎手の帽子じゃありませんよ。被害者の帽子が見付かったんです」 「……何だ。まだあの事件に構っているのか」 「調布署の主任に、そう報告しろと言われて来たんです」 「ちょっと待て……今、出馬だ」  遠くでファンファーレが鳴った。馬が車のように滑り出す。各馬は一団となってみるみるうちに坂を登り切り、直線坂下にかかる。 「食い付け、食い付け、そうだ」  と、海方が叫ぶ。  三コーナーから四コーナーへ。直線コースに掛かると果然、赤帽子が躍り出した。 「見や、ベイビイ」  と、海方が言った。  地響きを打って先頭の集団が目の前を通過する。砂煙が後を追う。一、二着はほとんど同時に見えた。喚声が鳴り止まない。 「三—五でしたか?」  と、進介が訊いた。 「勿論さ」  海方はにやっとして双眼鏡をポケットに入れた。 「……アナウンスがありませんよ」 「際《きわ》どい勝負だったんだろうな。だが、鼻だね。鼻の差で三番の勝だ」  海方のこうした自信たっぷりな能度が可愛らしくないのだ。 「主任が、この事件は海方さん好みだ、と言っていました」 「……あ奴《いつ》とは二、三度一緒だったことがある。それから?」 「それだけです」 「俺に犯人の名を訊いて来い、そう言わなかったか?」 「……ええ」 「まあ、いいや。ゆっくり合口の指紋を照合しても判ることだ」 「すると、海方さんはもう犯人が判ってしまったんですか」 「被害者を一目見たときにね。小湊君、被害者が刺されたときのことを思い出してくれないかね」 「被害者が刺されたのは今、テントの中に倒れている場所で——」 「そんなことは訊いちゃいねえ。そのときだ。そのときひょっとして〈南無〉という声が聞こえやしなかったかい?」 「なむ? ……」 「そう、お念仏だ。南無阿弥陀仏の南無なんだがね」  進介はそれを聞いてはっとした。 「聞きました。ブラックマジックとウロタエジロウがゴールに入ったときです」 「それで決まりさ」 「あれは南無三の南無じゃないんですか。南無三、取られたの、南無——」 「まあ、それでもいいんだが、俺が知っている男で、人を刺すとき必ず南無と声を掛ける奴がいてね。生まれた家が寺だから引導《いんどう》を渡す癖が身に着いたという」  スタンドは潮が引くように観衆が少なくなった。海方は馬場に背を向け、柵に寄り掛かって三階、四階席を見上げた。 「ようく覚えて置きや。あの傷はプロの腕だ。プロでも、背中から心臓へ、刃先きが右に向いて水平で、一気に骨を避けて出血がわずか。こういう仕事ができる奴はこの世に一人しかいねえ。丁金《ちようきん》組の幹部で、筒見順《つつみじゆん》てえ男だ」 「……だったら、すぐ、指名手配しないんですか」 「慌てることはねえんだ。筒見の仕事なら下手に逃げ廻って罪科《つみとが》を大きくはしねえ。殺した足でもうどこかの警察に自首しているはずだ」  筋道は通っている。しかし、いかにも玄人《くろうと》っぽい狡猾《こうかつ》さが、嫌な臭いを漂わせる。 「でも、海方さん。被害者を見ると、暴力団関係とは見えません」 「おう、いいところに目が届いているな」 「動機は何でしょう?」 「動機だと? 動機なんざ馬も食わねえや。俺達は殺した奴と殺された奴、この二人が誰と誰だか判りゃ、それでいいんだ」 「すると、海方さんは被害者が誰か、それも判ってしまったんですか」  進介は意地悪く訊いたつもりだった。しかし、海方は事もなげに言い放った。 「ああ。そんなことは電話一本で判ることだ」 「電話で?」 「いいかい、小湊君。被害者は競馬新聞の間にメモを持っていただろう?」 「……ええ。自分の予想を書き込んでいました」 「そのメモがただのメモじゃないことに気付かなかったかね」 「さあ……」 「白い封筒を開いて、メモに使っていたんだぜ」 「……そう言えば」 「手に取らなくったって、その封筒が病院の薬袋《やくたい》ぐらいのことは判る。薬を貰った患者の名前は切り取られていたが、病院の電話番号の局番だけは残っていた。六三九という数字が見えたから、多分江東区だな。丁金組の事務所も江東区にある。幹部の筒見順は、先月大怪我をして入院していた。その入院先の勝畑病院から先月の中頃、警察に内通があって、筒見の傷はどうやら拳銃で受けた銃創らしいということだった。筒見はその病院で被害者と知り合ったに違いねえ」  進介は内心で舌を巻いた。その通りなら、事件は解決したと同じだ。 「じゃ、勝畑病院の電話を調べ、すぐ連絡しましょう」 「まあ、そう急がねえでいい」  海方は眠いような目をした。 「一つ気になることがある」 「今の勝負ですか」  馬場に立っている電光掲示板には「写真」の文字が消えない。 「それもあるがね。今日は半袖シャツでいられる陽気かね?」  海方に答えでもするように、馬場の方から冷たい風が吹いてきた。一しきりスタンドに散った新聞紙と馬券が秋風に舞い上る。 「さっきから、被害者は筒見が刺し易いように上着を脱いだ、という考えが頭から離れなくなっているんだ。帽子も同じ。被害者は筒見が見付け易いように真っ赤な帽子をかぶっていた」  そのとき、電光板に数字が出た。レース結果は三—五だった。  海方はそれを横目でちらりと見て、 「何だか、働きたくなりましたよ。これから、勝畑病院へ行って、被害者の身元でもすっきりさせべいか」  と、言った。     三  祭日で勝畑病院の正面玄関は閉められていた。  横の通用門から事務室へ。  応対に出た中年の事務員は警察と聞くと、好奇心を露わにして愛想よく喋り始める。 「院長ですか? あなた方は運がよろしいですよ。いらっしゃいます。いつもですと、休日には別荘の方なんですがね。今日は学会がありまして、ちょっと前にお戻りで、いえ、またすぐこれから別の会合に……」  がらんとした薬局の前を通り抜けて階段で二階へ。  二階は病室が並び患者や見舞客が廊下を往き来している。院長室は二階の奥だった。  院長室のドアは開いていて、背広を着た男が錠前を修理しているところだった。床には道具箱や取り外されたノブが散らばっている。 「院長先生にご面会です」  と、事務員が背広の男に言った。 「や、どうぞお入りなさい」  背広の男は気さくに言って、道具箱を片寄せ、ドアを大きく開けて立ちあがった。  立つと背が高く、明るい表情をした俊敏そうな男だった。年齢は三十前後、色白で態度に上品さが感じられる。  正面に木製のどっしりとした机があり、その向こうで片端から書類にサインしている初老の男がいた。机の後ろは窓で、外からでは判らなかったが、裏庭はかなりゆったりして樹木も多く公園のような感じだ。  窓際の男は忙《せわ》しそうに書類を傍に押しやって顔を上げた。きちんとしたグレイの背広で、細面の表情に険しさを現わしている。  海方は茶の絨毯《じゆうたん》の上に仁王立ちだった。進介は間が持てなくなって、先に名刺を取り出した。相手は物堅そうな態度で進介の名刺を受け取り、紙入れから自分の名刺を選《よ》り出す。その表には「勝畑病院院長 勝畑幸一」としてあり、裏を返すと所属団体の役員名が行列していた。  海方は相変らずむっすりと棒立ちのままだ。進介は勝畑に言った。 「先ほど電話でお伝えしたのですが、最近ここに入院した患者のことでお尋ねしたいことがあるのです」 「それは、どんな患者でしょう」  海方は無言で内ポケットから茶封筒を取り出し、進介に渡した。進介は封筒の中から写真を取り出した。鑑識官が撮った、競馬場で殺された被害者のポラロイド写真だった。 「この男が入院していたと思うのですが」  進介は写真を机の上に置いた。勝畑はそれを手に取り上げた。眉間《みけん》に不快そうな皺《しわ》が寄った。死顔だということがすぐ判ったのだろう。 「柳矢《やなぎや》君——」  勝畑は入口の方に声を掛けた。 「仕事は終ったかね」 「今、終ります」  柳矢と呼ばれた若い男は「院長室」と書かれたドアのパネルに木ネジを入れて、ドライバーを道具箱に戻した。 「先生、助かりました」  と、事務員が言って、道具類を片付け始める。 「なに、手術よりはよほど楽さ」  柳矢は床に散っているノブをまとめて軍手を脱ぎ、流し台で手を洗って手早く白衣を着た。白衣を着るととたんに医師らしい威厳が備わった。 「君にもいてもらおう」  と、勝畑が言った。柳矢は事務員を外に出してドアを閉めた。 「柳矢祐次、私の甥で当病院の外科部長です」  紹介されて、柳矢は人懐《ひとなつ》こい笑顔を見せた。 「本当は外科部長がドア直しをするほど閑なわけじゃないんです。ただ、今日は家具屋が休みでしてね、そんなときに限って鍵がおかしくなる。器用なところを買われましてね」 「余計なことは言わないで、この写真を見なさい」  勝畑は苦苦《にがにが》しく言い、写真を柳矢に示した。 「私には見覚えがある。確か、同室のお喋りなお婆さんと気が合っていつも話し合っていた男だ。お婆さんはフサとか言って——」  柳矢は勝畑の言葉が聞こえぬように、写真を見詰めていた。勝畑は記憶を探るように言う。 「……フサの苗字は、尾久《おぐ》とか言った。この男は……」 「院長、思い出しました。これは六山代造《ろくやまだいぞう》です」  進介は手帳を拡げて六山代造と尾久フサの名を書き入れた。その手帳に最初に書かれた被害者の名だった。  海方が指を組み、ぼきっと骨を鳴らした。 「知っているのかね」  と、勝畑は柳矢に訊いた。 「知っていますとも、院長。最近まで、六山代造はD号室に入院していました。私が担当した患者です。しかし、これは?」 「そう、死顔です。その男は、今日死にました」  と、進介が言った。 「競馬場で何者かによって刺殺されたのです。被害者は身元が判るような品は何一つ身に付けていませんでしたが、この病院の薬袋を持っていたのです」 「……そうでしたか。まあ、お掛け下さい」  柳矢はソファを勧め、隣室のドアをノックして中に声を掛けた。ドアを開けるとワードプロセッサーのキイを叩く音が聞こえた。  海方と勝畑は互いに仏頂面を崩さない。海方は六山の写真を大切に茶封筒へ戻すと、代わりに内ポケットから別の封筒を取り出した。六山が持っていた、薬袋だった。  勝畑は薬袋を渡されると、まるで汚い物を持つような態度で、それを柳矢に差し出した。 「……確かに、これは当病院のものです」  と、柳矢が薬袋を手にして言った。進介が柳矢に訊く。 「袋には日付けがあります。十月三十一日ですね」 「確かに……六山代造は先月迄、ここに入院していましたよ」 「六山の住まいはどこですか?」  柳矢は難しい顔をした。 「それが……判らないのですよ」 「判らない?」 「ええ、判らないのです。私も後で調べたのですが、保険証の住所はすでに引き払っていました」 「すると、医療費も支払わずに?」 「そう。退院の許可もなく、逃げてしまったのです」 「病名は?」 「ちょっと待って下さい」  柳矢は受話器を取り上げた。内線につなげるようだった。柳矢が受話器を置くと、すぐ看護婦がカルテを抱えて部屋に入って来る。肉付きの良い中年の女性で、海方は女性の胸に無遠慮な視線を這わせた。  柳矢はカルテを繰った。 「六山代造は救急車で運び込まれたのです。十月十四日四時、近くの路上で吐血し、意識を失っているのを通り掛りの人が見付け救急車を呼んだわけです。急性の胃潰瘍でしたよ。すぐにでも手術が必要だということで私のところに廻されて来たのですが、その後の経過を見るとそれほど重態ではなく、本人も非常に手術を嫌がったので、しばらくは入院させて様子を見ることにしました」 「回復の状態は?」 「まあ、順調でした。潰瘍は精神的なものが原因だったようです。それと深酒が引き金になったんですわ。一週間目からは普通の食事を与えています」 「六山の家族は?」 「保険証には優子《ゆうこ》という妻の名がありましたが、別居中でどこにいるか判らないそうです」  隣の部屋のドアが開き、若い女性が紅茶を運んで来た。  透き通るような肌と、濃い直線的な眉と目が印象的で、Vネックのセーターに薄茶の綿の上着を気取りなく羽織り、袖口をまくり上げている。  前にカップが置かれると、海方は今迄の渋面《じゆうめん》をほぐして、 「こりゃ、どうも」  必要以上にぬうと首を突き出し、相手に顔を寄せる。 「あなた、看護婦さん?」  女性はきりっとした態度で答えた。 「いいえ、院長室の秘書でございます」  柳矢は二人の対応を横目で見ながら、進介の方にカルテを向けた。  六山代造、五十五歳。江東区南砂町のアパートが住所だった。 「それで、六山がいなくなったのは?」 「一昨日です。入院して十九日目の夜です。当病院の支払いは毎月十五日と月末なんですが、三十一日の支払い日になったので、看護婦が支払い通知書を渡し、もし支払いができないときには、保健所に手続きするようにと説明しました」 「おっぱい……」  ふいに海方の声が聞こえた。進介がカルテから目を離すと、海方が秘書の胸元を覗き込んでいる。 「嫌ですわ、おっぱいだなんて」  秘書は後退《あとずさ》りしながら胸元を掻き合わせた。 「いや失礼、この節、目が遠くなりましてね」  海方は目をしょぼしょぼさせて秘書が付けている名札を見た。 「わたしの姓でしたら、乙羽《おとわ》と読んで下さい。名は佐織《さおり》です」 「なるほど、おっぱではありませんか。つい、乙《おつ》は子供のときから仲良しでしてね。小学校の通信簿には乙がずらっと並んでいたものです。わはははは」  海方はカップの受け皿に置いてある砂糖のステッカーを上着のポケットに入れ、砂糖のない紅茶を口に運んだ。秘書はさげすんだような目で海方を見て、隣の部屋に戻って行った。  柳矢は話を続ける。 「……六山は通知書を受け取ると、お金は持っているので、現金で会計に支払うと言ったそうです。しかし、支払うどころか次の日の夕方、食事の後でいなくなりました。その日はたまたま日曜日で、病院が手薄になったときを狙ったんですね。六山は救急車で運び込まれたとき、小さな古い鞄を持っていたのですが、ベッドは空で、何も見当たりませんでした。間違いなく、計画的な逃亡でした」 「このカルテにある住所には連絡したのですね」  と、進介が訊いた。 「勿論、気が付くとすぐ電話をしました。しかし、電話はアパートの大家のもので、その大家が言うには、ここ一月も六山は帰って来ない、この先も帰ることはないだろうと。よく訊くと、六山は余程前からサラ金に多額の借金があって、その返済に困って逃げ廻っていたんだそうです。優子という妻も六山に愛想をつかし、家を出て行ってしまったそうです」 「何に必要で、六山は借金していたのでしょう」 「賭博です。年中、競輪や競馬の新聞を放さなかったと大家が言っていました」 「借金の額は?」 「そこまでは判りませんね」  その借金は今度の競馬の払戻金で賄《まかな》えるのだろうか。進介は六山のアパートの住所と電話番号を控えた。 「六山の入院中、見舞いに来た者がいますか」 「……担当の看護婦の話ですが、一人だけいたようです。三十ぐらいのサラリーマン風の男ですが、手ぶらで見舞客のようではない。後で考えると、どうやら借金の取立てに来た男じゃなかったか、そう言っています」 「今度その男が現れたら、私のところに知らせて下さい」 「判りました。しかし、一体誰が六山を殺したのです?」  柳矢はカルテを受け取って、紅茶を口にした。 「そのことですが、六山が入院しているとき、筒見順という男がこの病院にいたことがありますね?」  柳矢は静かにカップを受け皿に戻す。 「筒見順……背中に彫物《ほりもの》のある男ですか?」  進介が黙っていると、海方が物臭そうな声を出した。 「そ奴だ。背中に四つの戒名が彫ってある。四人共、順が手に掛けた男だ。もっとも、その内、筒見が実刑を受けたのは一人だけだがね」  柳矢はうなずいた。 「その男でしたら、六山の入院中、同じように入院していました。病室も同じ、外科のD号室です」  海方は上目遣いに柳矢を見た。 「部長さんはご存知じゃなかったんですか。勝畑病院に入院している筒見順という男の傷が、銃で撃たれたものに違いない。こう、警察に通報した人間がいました」 「……いや、私の耳には入っていませんよ。確かに、患者の大腿部の傷は普通ではありませんでしたが」  今迄、黙っていた勝畑が手を挙げて柳矢を制した。 「私もそんなことがあったとは知りませんぞ。その通報者は病院の者であるとはっきり言いましたか」 「さあね。私の担当じゃねえもんで、確かなことは言えません」 「じゃ、この位にしてもらいましょうかな。患者にはプライバシーがあります。医者として、第三者に患者のことをこれ以上話したくありません」 「や、ごもっとも」  海方は素直にうなずき、残りの紅茶を飲み干して立ち上がった。 「お忙しいところ、ご協力を感謝します。これだけ伺えば充分です。六山代造を殺した犯人はもう逮捕したも同様ですから」  柳矢が先に立ってドアを開く。進介と海方が外に出ると、 「ちょっと、柳矢君」  内から勝畑が呼び止めた。話がある様子だ。柳矢は進介達に軽く頭を下げ、 「じゃ、ここで失礼」  と、ドアを閉めた。  そのまま、元の階段を降りて玄関へ。出ようとすると海方が言った。 「もうちいっと、ここにいてもらいたい」 「何をします?」 「今の看護婦長は田中|留美《るみ》子という名だ」  海方は女性に抜け目がなさそうだ。進介は看護婦の名札まで目が届かなかった。 「その田中留美子と……いや、あれは俺の好みだから、秘書の方がいい。秘書の乙羽佐織嬢と……そうさな。前に見える喫茶店がいい感じだから、あそこに連れて行ってお喋りをしてもらう。仕事を離れて、と言ってな」 「……簡単について来るでしょうか」 「ついて来るさ。ちゃんと手を打っておいた」 「手を?」 「ぼんやりしていちゃいけねえ。俺が佐織の前で下司《げす》に振る舞ったのは何のためだ。お前を引き立てるためじゃねえか」 「じゃ……あれは演技だったんですか」 「そうとも。もっとも俺は名人だからの。芝居が見抜けねえのは当然だが。だと言って、誘い方が下手じゃだめだ」 「……自信がありませんよ」 「これから教える通りにやればいいんだ。最初に事務員が言っていたな。あれは事務長だ。名札を見たな。福本という名だ。福本は院長がこれから会合があると言っていた。ここで待っていると、勝畑が出て来る。裏の駐車場から車でお出掛けだろう。秘書が一緒に駐車場まで出てお見送りだな。車がいなくなったところで声を掛ける。甘く、こんな具合だ。〈僕のボスもいなくなりました。息抜きにお茶でも飲みに行きませんか〉とね。さり気なく、いつも口喧《やか》ましい男に使われている者同士の労《いた》わりの気持を表現する。ちょっと難しいかな」  海方はにやっと笑った。 「紅茶を誉めるのを忘れるな。あれはアラビアンナイトてえ銘柄で、ブランデーが一、二滴落としてあった。湯の温度もちょうどよかった。なかなか神経の行き届いた子だ。しかし、今日はちょっとお冠りに見える。院長のために休日出勤だ。ボーイフレンドと遊べなかったからかな。それから、マドリッドだ」 「マドリッド?」 「服だよ。佐織嬢が着ていた上着を見たか。生地は綿だがポケットの形を見りゃ判る。あれは青山のマドリッドで作った誂《あつら》えの上着だ。靴はイタリア製だと思う。銘柄までは判らなかったが、多分、今年の夏休みかな、ヨーロッパ旅行したとき買って来たものだろう。もし、二人がその気になったら、永代通りのセブンホテルがいいの。全てに格安でレストランがいい。と、これだけ予備知識がありゃ、話題に困るまい。最後に、彼女の電話番号を訊いてお終《しま》い。あの二人の医者は口が固そうだからね。これからものを知りたいとき、その電話を利用した方が何かと便利なんだ」 「……海方さんは?」 「俺もこれから忙しい。もう、筒見順も自首しているだろうから、奴と会わなきゃならねえ。俺だって本当は彫物を入れている男より、若え女の子と喋ってる方が余っ程いいんだがね」     四 「そのジャケットは青山のマドリッドでしょう」  と、進介が言った。 「あら、お判りになります?」  と、佐織はにっこり笑う。 「判りますとも、他ではそういうポケットを縫いませんよ」  静かなフォークソングが流れている。  海方のお膳立て通りに事が運び、あまり調子がよすぎるのが口惜しいほどだった。  佐織は病院にいるときより穏やかな感じで、話すとなかなか機智に富んだ女性だった。イタリアの靴店では、美術館の場所を尋ねたがどうしても言葉が通じないで、言葉を繰り返すたびになぜか店員が靴の値を下げる。お蔭で安い買物をしたが、その日美術館へ行くことはできなかった、と笑った。その頃になると二人はかなり打ち解け、気易く佐織の電話番号を訊き出すことができた。 「勝畑院長はかなり気難しそうな人ですね。僕はああいう人は苦手ですから、今度からは何かあったら、あなたに訊くことにします」 「小湊さんのボスも相当じゃない」 「ええ、いつも手古摺《てこず》っています。下品で好色で、無精でけちです」 「内の院長は頭が固いだけですけれど、今日の質問もよくなかったわ」 「僕の?」 「ええ、あれじゃ、まるで内《うち》の病院は浮浪者ややくざばかりが集まっているようじゃありませんか」 「……なるほど」 「院長は体面を重んじる人なのです。院長はその人達のことを訊かれるのが嫌で機嫌が悪かったのよ。もっとも、施設を立派にして診療費をうんと高くすれば、お金に困っている人はやって来ないでしょうけれど、院長はその決断も付かないでいるのよ」 「しかし、病院の敷地はかなり広いようじゃありませんか」 「ええ、あれだけあれば、どんな銀行でもどんどんお金を貸してくれるでしょう。すぐビルが建つわ」 「柳矢部長もドアの修理などしなくても済む」 「そうなのよ。柳矢先生は若いから、病院を建て替えたい考えなの。でも、院長はそうすると患者が少なくなってしまうんじゃないかと危ぶんでいる」 「現在はどう? 病院の成績は」 「一時より、患者が少なくなったことは確かね。わたしは矢張り建物が古くなったのが原因だと思うわ。もっとも、筒見さんが入院した頃は大部屋はほぼ満員でしたけど」 「……筒見さんを知っているの?」 「ええ、筒見さんは前にも入院したことがあるから。彼の身体、もう、傷だらけ。可哀相……」  佐織はしんみりとした調子になった。 「あなたのボス、筒見さんのことを訊いていたでしょう。本当に彼が六山という人を殺したの?」 「彼なら、最初からそう思っていますよ」 「あなたは?」 「僕は確かな証拠のないことには、軽軽しく断定しませんね。今のところ、筒見と六山とは、ただ、病院で部屋が同じだったということしか判っていないから」 「そうよ。あの人達が殺し合うなんて考えられない。二人に限らないわ。あのD号室に入院していた患者は、皆、仲良くやっていたんですよ。六人も一室に寝起きしていると、やれいびきがうるさいとか、隣の人が気に入らないと言い出す人が必ずいるもんだけれど」 「六山という患者は?」 「……多分、無口で優しかった人だわ。そう、同室のお婆さんが面倒を良く見てやっていたわ。看護婦さん以上に気が付いてね」  進介は佐織の話が気になり始めた。 「大分、殺人事件などという世界とは遠いみたいだ」 「そうよ。あなたのボスは、筒見さんの前科を知っているから、それに囚《とら》われているにきまっているわ」 「……しかし、実際、筒見は何人もの人を殺しているんだろう」 「それだって、筒見さんが好きでやったことじゃない。さっき、聞いたでしょう。彫物の話」 「うん。自分が手に掛けた人の戒名を背中に彫っているそうだね」 「わたしは見たわ。筒見さんはどんな場合でも、憎んだり怨んだり金品を盗ったりで人を傷付けてきたんじゃない。全て丁金組の組長の命令。それで、筒見さんは自分を罰する意味で、自分の身体に生涯消えない文字を黒く入れているの」 「……そうなのか。とすると違うな。六山を殺害したのは筒見とは思えなくなってきた」 「小湊さんもそう言ってくれる? 有難う。嬉しいわ」 「佐織さんと話して、よかった」 「……何だか、話が湿っぽくなっちゃったわね。気分直しに、どこかで一杯やりましょうよ」     五  特殊犯罪捜査課の部屋に行くと、海方が荒れていた。 「電話番号は訊いて来いと言ったが、無理に寝て来いとは言わなかったぞ」 「寝て来やしませんよ」 「そうだろうな。お前がそう手早いとは思えねえ」 「勝畑病院のD号室の様子を訊いていたんです。どうも、筒見が六山を殺したとは思えなくなりました」  海方は指をぼきっと鳴らし、変ににたついた顔になって進介を手招きした。進介は椅子を少しだけ海方の方に寄せた。 「……いいかい。擂粉木《すりこぎ》で腹を切ろうが、蛙が馬の子を産もうが一向に構わねえ。だが、これだけは違う。いいか、六山を殺したのは絶対に他の人間じゃねえ。筒見順なんだ」 「じゃ、その筒見は自首して出ましたか?」 「……いや、まだだ」 「おかしいじゃありませんか。筒見が人を殺したのなら、その足で自首するはずでしょう」 「何か、事情があるんだな」 「それでもまだ筒見が犯人なんですか」 「おう、よく言ってくれた。そうなんだ。君の好きそうな証拠が出て来た」 「証拠?」 「そう、さっき鑑識の指紋係から報告が入った。凶器の合口の柄に血染めの指紋があったとよ。その指紋を調べると、それが筒見順の指紋だった。どうかね? これでも満足しねえか」  遠くに三河課長が進介の方を向いて禿げた頭と一緒に右手を振っている。海方に逆らうなという合図だ。後で聞くと、進介が来るまで、海方は今度の事件で捜査本部を設けるという案に、頑強に反対していたのだ。捜査本部など無駄だ、必ず筒見は自首して来るという確信でだ。  進介は三河課長の合図を見て、それ以上海方に反対しないことにした。 「そうでしたか。じゃ、海方さんの勘がぴったりだったんですね」 「そうさ。そのうち、証拠なんぞより俺の勘の方が正しくて早いことが段段判ってくるさ」  海方がそう言って椅子にふんぞり返ったとき、特犯課の部屋に受付の婦人警官が入って来た。 「見や、やっとお出ましだ」  と、海方が進介に言った。  だが、それは筒見の自首を報らせに来たものではなかった。 「六山代造の妻だという女性が出頭して来ました」  と、婦警は三河課長に言った。  三河は海方の方を見たが、海方はふんぞり返ったまま聞こえぬ振りをしている。三河は仕方なく、進介に声を掛けた。 「小湊君、一緒に会ってみよう」  狭い取調室。  六山代造の妻、優子は小柄なせいか代造の妻と思えぬほど若若しい。しかし、地味すぎるセーターとスカートが態度まで年寄り染みたものにしている。  優子は角の剥げたバッグを握り締め、テレビのニュースで事件を知り、もしかするとと思って来たのだと言い、差し出された代造の写真を一目見ると、主人に間違いありませんと言って泣きだした。 「もしかすると、という意味は、六山さんが殺されるかも知れないと思っていたのですか」  と、進介が訊く。 「ええ。六山は近いうちに死ぬだろうと予感していました。でも、殺されて死ぬのではなくて、自殺ではないかと考えていました」 「……それは?」  優子の話によると、六山代造という男は、大工の腕は良かったが、玉に瑕《きず》が賭博好きで、子がないこともあって優子が大目に見ていたのが間違いだった。深く考えずに借りた高利の金が知らぬ間にふくれあがり、家は追われ優子にも負担が掛かって来そうな状態になったため、代造と別れて縁者のもとに身を潜めるほど追い詰められていたが、一週間ほど前に連絡があった。 「……お前にも長い間苦労を掛けて悪かったが、やっと借金を返すめどが付いたと言います。そして話のついでのような調子で、苦しかろうが俺の保険料だけは支払っていてくれと言うので、ぴんと来たのです」 「しかし、奥さん。六山さんは殺される直前、曲垣賞で万馬券を当てていたのですよ」  優子はしばらくぼんやりしていたが、その意味が判ると、両眼に新しい涙が溢れだした。 「六山さんは勝畑病院に十九日間入院していたのをご存知じゃなかったんですか?」  と、進介が訊いた。  六山が路上で吐血して病院に運ばれたことを聞かされると、優子は声をあげて泣き崩れた。  海方が取調室に入って来たのは、優子の絶叫の最中だった。 「小湊君、電話だ」  海方はむっすりした声で言った。 「は?」 「おっぱいの佐織嬢からだ。君の声が聞きたいと、よ」  その電話が、筒見順の殺害を告げるものであるとは、そのとき誰も予想しなかった。時刻は七時五分。   二章 死出の報復     一  捜査課の部屋に戻り、進介が受話器を取ると、切迫した声が聞こえた。  電話で聞く声は初めてだったが、すぐ佐織と判った。別れてから一時間と経《た》っていなかった。 「もしもし、筒見さんが大変なの」  佐織は電話に出た進介の声をろくに確かめずに言い立てる。 「筒見が、そこにいるのか?」  殺人容疑者の筒見と聞いて、進介の傍に立っている海方の表情も変わった。 「そうじゃないの。今、筒見さんから電話があったんです。わたし、今迄、小湊さんと会っていたでしょう。わたしの帰るのをずっと待っていたみたい」 「それで?」 「それが、とても変なの。とても元気のない声で、自分が入院していたとき世話になったと礼を言うのはいいんですけれど、その後ですぐ、勝手なことを言うようで済まないが、例の歌を聞かせて欲しいと言うんです」 「例の歌?」 「ええ。それを精しく説明していると長くなりますから飛ばします。結局、わたしがその歌を詠み終ると、筒見さんは本当に有難う、君がいてくれてよかった、さよならと言って……」  佐織の声が途絶えた。 「どうしたんだ?」 「……わたしがいくら声を掛けても返事がなくなったわ。すると、すぐばしっというような音が聞こえて」 「電話が切れた?」 「ええ。でも、すぐじゃなかったんです。何か、受話器が床にでも落ちたような音がして、それから、そっと、といった感じで電話が切れたんです。ねえ、小湊さん。わたし、筒見さんが銃か何かで撃たれたような気がしてならないんです」 「撃たれた?」 「ええ、撃たれて筒見さんは受話器を床に落とし、撃った人間が受話器を拾って電話機に戻したと思うんです」 「筒見はどこから電話しているとか言わなかった?」 「ええ、何も。わたし、恐いわ」 「今、自宅?」 「はい……」 「とにかく、一度電話を切る。すぐ、掛け直すから、少し待っていなさい」  進介は電話を切った。  夢中で判らなかったが、あたりが汗臭い。見ると海方も電話機に顔を寄せていたのだ。 「筒見が撃たれた、だと?」  海方は煙草のやにで汚れた歯を剥《む》いた。 「筒見のアパートには刑事が張り込んでいるんだぞ。丁金組の事務所にもだ」 「筒見はどこにいるとも言いませんでした」 「佐織の住まいは?」 「勝畑病院の近く、立川《たてかわ》だと聞きました」 「すぐ、行くんだ」 「は?」 「付き添いで行くんじゃねえ。筒見のような男と親しくしているとは怪しい女だ。何かを訊き出して来い」 「判りました」     二  どの窓にも灯りがついている六階建てのマンション。  進介はその三階でエレベーターを降り、佐織の住まいのチャイムを押した。電話をしていたので、すぐ、佐織がドアを開けた。  玄関に小さな黒いハイヒールが並んでいる。きちんと揃えられた靴が、女性一人住まいの聖域を表徴しているようだった。 「どうぞ、お入りなさい」 「……いいんですか」 「こういう家に入ったことはないの?」 「ええ」 「遠慮しないで。ずっと、心細かったのよ」  一DKの小ざっぱりとした住まいだった。佐織は椅子を引いた。蒼白く緊張した表情だ。 「何か、飲物でも?」 「いや、構わないで下さい。それよりも、君と電話しているとき、筒見が撃たれたらしいというのは?」 「ええ、電話の途中での変な音。そして、その部屋には誰かもう一人がいて、その人が電話を切った、という気配だったから」  佐織は綿の上着を脱いでいただけで、かなり親しみ易い感じになっていた。 「銃の音を聞いたことがある?」 「映画や、テレビでなら」  これは愚問だった。受話器を通してでなら、映画やテレビの音と変わるまい。 「筒見が殺されるという予感はあった?」 「……死ぬ、という感じはしていたわ」 「さっき、歌がどうのこうのと言っていた」 「ええ。筒見さんは電話で、例の歌を聞かせて欲しいと言って来たんです。その歌というのは有名な〈のこりなく 有明けの月の もる影に ほのぼの落つる 葉隠れの花〉」 「……一度だけ聞いたんじゃよく判らない」 「そうね。夜明けの月が空にあって、まだ月の光が消えないで桜をうっすら照らしている。その葉隠れにある花が人知れずかすかに散っている景色を詠んでいる歌……」 「静かだな。静かで、深みがある」 「ええ。決して、豪華に咲き誇って威勢よく散っていく桜じゃないわね」 「筒見はその歌が好きだったんだね」 「ええ。意外とこまやかな心を持っている人でした」 「つまり、筒見の心情によく合った歌なんだ。葉隠れの花とは筒見自身のことだろう。陽の当たる場所にもいず、人にも認められない。有明けの淡い月の光の中で、そっと散っていくというのも筒見の人生を表徴しているようだ」 「わたしもそう思います」 「その歌を詠んだ人も、幸せでなかった感じだな」 「ええ、式子内親王《しきしないしんのう》です」  知らない名だった。有名な歌も知らない作者も知らないでは、無智を告白するようなもので、進介は黙っていた。佐織は静かに口を開いた。 「鎌倉時代、後白河天皇の皇女。知った振りをするようですけれど、当時の仕来たりで、天皇即位のとき未婚の内親王は天皇の名代として神に奉仕する斎宮《いつきのみや》にならなければなりませんでした。式子内親王はそうして賀茂神社に、神の妃として青春を送ったのです。ですから、式子内親王の歌はどれも清らかですが、孤独で寂しいんです」 「筒見とは、よくそうした話をした?」 「ええ、筒見さんもよく歌の本を読んでいたわ」 「つまり、歌がきっかけだった?」  佐織は身構える姿になった。 「それ、どういう意味? 普通の仲じゃなくなったのか、と質問したいの?」  進介はあわてて手を振った。ここに来る前に言われた海方の言葉を覚えていたのがいけなかった。 「刑事さんて、皆そういう発想で人と付き合うわけ」 「誤解だよ、言い方が悪かったら謝る。でも、今、人が殺されているかも知れないんだ。悠長に言葉を選んではいられない」 「そうだったわね」  それでも、佐織の表情の固さはすっかり消えたわけではない。 「それなら、わたしもはっきりと言いましょう。わたしと筒見さんはそんな意味の仲じゃなかったわ」  進介はほっとした気持になった。が、どういうわけかその心を佐織に知られたくなかった。 「二年ほど前になるかしら。筒見さんはそのときも血塗《ちまみ》れで病院へ担ぎ込まれて来ました。でも、その傷より、麻薬中毒の方が問題だったんです。そのときの担当の先生や婦長さんは、筒見さんにかかわりたくなかったんですが、わたしはその苦しみを見ていられず、どうしても、もう一度更生させたかったんです。ちょうど、地下の遺体安置所が空《あ》いていたので、そこへ運び、幻覚を見て暴れる筒見さんを一晩中押え付けたことも……」 「驚いたな。あの病院では秘書もそんなことをするの?」 「そう、まだ小湊さんには話さなかったわね。わたし、当時は看護婦で勤めていたのよ。半年前、今の部屋に移されました」 「看護婦の技術があるのに?」  佐織はそれには答えず話を続けた。 「筒見さんは意志の強い人でした。禁断症状を精神力で乗り越えると、後の回復はびっくりするほど早かったわ。でも、協力してよかった、と思ったのは半年足らず。今度はもっとひどい有様で、いえ、あれ以来、麻薬とはきっぱり縁を切って薬の中毒ではなく、暴力団同士の抗争に巻き込まれて、全身に傷を負っていました。そのとき三、四人の相手を殺傷してしまったんです。筒見さんは襲われた方でしたが過剰防衛の罪で服役が決まりました。そのとき、たまたま手元にあった〈中世の歌人〉という本を筒見さんに手渡したのです」 「その中に、式子内親王の歌があったんだね」 「ええ。筒見さんはそれから、二度暑中見舞を送ってくれました。獄中からの年賀状は自粛していたんでしょうが、その葉書には〈中世の歌人〉を繰り返し本がぼろぼろになるまで読んでいますと書いてあったわ」 「……結局、それは君への思い入れもあったんじゃないかな」  佐織はちょっと黙っていたが、すぐ、素直にうなずいた。 「最初からそう言ってくれればよかったのよ。刑の途中で仮出所し、わたしのところへ挨拶に来たとき、それがはっきりと判ったわ」 「筒見は言葉で、言った?」 「いいえ。もし、言葉で言ってくれたら、わたしの境遇は変わっていたかも知れない」 「求められれば、結婚した?」 「きっと悩んだでしょうね。でも、最後にはそうなっていたかも知れない」 「筒見の身の上も変わっていただろうな」 「ねえ、そう思うと何だかたまらないの。わたしは筒見さんの気持を知りながら、知らん顔をしてきました。そのため、筒見さんは以前の生活に戻って——」 「まだ、殺されたとはっきり判ったわけじゃない」 「そうね……」  話しているうちに、佐織は落着きを取り戻したようだ。テーブルの上にコップを二つ並べ、冷蔵庫からビールを出して来てコップに注いだ。 「で、今度筒見が入院して来たときの様子は?」  進介はビールに口を付けた。なるべく、訊問という感じを消そうと思ったからだ。 「二度目も、血塗れで担ぎ込まれたんだろう」  佐織が初めて小さくほほえんだ。 「ええ、先月の中頃。会うときはいつも修羅場ね」 「そのとき、警察に通報した人間がいるんだがな。筒見の傷は銃で撃たれたものらしいとね」 「それ、病院の人?」 「電話ではそう言っていたが、相手は名も明かさなかった。警察でも一応は筒見に事情を訊きに行ったんだが、無論、筒見は銃で撃たれたとは言わなかったし、それを見たという者も見付からないのでそのままになっているようだ」 「……病院内ではそんな噂は聞かなかったわ」 「で、今度はどうだった? 筒見の様子は」 「いつもと同じね。入院中はこの人が死闘を潜《くぐ》り抜けて来たとは思えない、素直で大人しい患者だった」 「君に対しては?」 「今度は立場が違います。これまでは患者と看護婦でしたけれど、今度はわたしの仕事が違い、あまり顔を合わせることもなかったの」 「でも、筒見が尋ねて来たり——」 「わたしの方から尋ねたことがあったわ。でも、立入った話をしたわけじゃない。ただ、一度だけ昼休みに喫茶室で出会って、三十分ぐらい話したかな」 「悩みとか、相談ごと?」 「いいえ。そのときは〈万葉集〉を読み始めたと言っていたわ」 「〈万葉集〉ね」  進介は自分がまるで興味のない、難しそうな歌集の話に身を入れている二人を想像した。 「こんな話、面白くないでしょう」 「いや、続けて下さい」 「わたしが渡した本を、ぼろぼろになるまで読んでいると書いてきたことが誇張でないことが判りました。筒見さんはびっくりするほど歌に精しくなっていることが判ったからです。そのとき、式子内親王の歌の心に突き刺されるようなショックが忘れられないと繰り返したわ」 「他に、以前と変わったようなところは?」 「……わたしと会っているときはそうは思わなかったけれど、遠くから見ると、筒見さんは随分暗く感じました」 「それで、死ぬかも知れないと思った?」 「いいえ。まだ、そのときは」 「筒見を訪ねて来た者は?」 「わたしの知る限りでは、誰も」 「じゃ、筒見と同じ部屋に入院していた六山代造は? 筒見と六山とは病院の外でも、以前から知り合いじゃなかったかな」 「お役に立たなくて残念ですけれど、わたし、今日まで六山という人の名も知らなかったんです。同じ病院にいたのですから、顔ぐらいはぼんやりと覚えているけれど」 「……すると、さっきの電話があって、筒見が普通じゃないと感じたんだね」 「ええ」 「その、電話だがね。よく思い出してもらいたいんだ。筒見の声の他に、何か音が聞こえやしなかったかね。自動車の音でも、廃品回収の声でも、何でもいい」  佐織は額に指を当てた。 「……そう言えば、警報機の音が小さく聞こえていたような気がする」 「警報機?」 「そう。踏み切りの警報機ね」 「電車の音は?」 「ちょっと待って……あ、あれがそうだったかしら」 「よく、考えて」 「多分、そうだと思う。電話の雑音ではなかったわ。でも、わずかな間だった」 「列車じゃないのかい」 「ええ。列車にしては通り過ぎるのが短かすぎる感じだったわ」 「東京には都電が一本残っている」  進介はポケットから首都圏交通カードを取り出した。  その一本は荒川線。早稲田を出て大塚から王子を抜け、町屋から三ノ輪橋まで。ただし、その間にいくつ踏み切りがあるか判らない。     三  筒見順の死体が発見されたのは、翌朝、七時だった。  所轄署の連絡によると、都電荒川線の荒川七丁目駅の附近に住む主婦、森下八重子が発見者だった。その日の朝、八重子は起きて二階の西側の窓を開けた。窓の外は狭い通りを隔てて、向こう側のアパートが見えるが、いつもだと一日中ブラインドの降りている正面の窓が開いている。この寒い朝、変だなと思った。部屋の電灯は消えているが、もう外は明るいので部屋の奥まで見通すことができる。八重子はこれまで、一度も向かいの部屋を見たことがなかった。部屋に人気のないのが判るとともに、ちょっとした好奇心が起きて、背伸びして部屋を覗くと、床に人が倒れているのが見えた。床には血のようなしみが散っている。八重子はあわてて夫を起こし、夫にも確認させてから警察へ連絡した。  屍体が発見された家は木造二階建ての民営アパートで、大家の話によると、二階には三世帯が住んでいる。通りに面した問題の東側の世帯が一番広く、六畳二間と四畳半の他に、ゆったりとした台所と浴室が付いている。間取りは多いがアパートとしては割高で、同じ家賃ならマンションをという時代になり、しばらく空いたままになっていたのだが、半年ばかり前、借手が付いた。斎野市六《さいのいちろく》という独身の中年男だった。その後、斎野が部屋に出入りするところをあまり見ないが、不特定な男が部屋を使っている様子だった。どうやら、一般の世帯ではないようで、小さな事務所として使われているらしいが、いつも部屋は至って静か。近所の苦情もなく、家賃もきちんきちんと銀行の口座に振り込んでくれる。大家としては子持ちの世帯が入るより家の痛みが少ないし、世話の焼けることもないというので、斎野の仕事について、ことさら探ってみるようなことはしないで来た。  被害者の筒見順の名を大家は知らない、顔を見たこともないと言う。 「斎野市六だって? ふざけやがって」  海方はむっとしたように言い捨てた。  筒見順の自首を疑わず、筒見が撃たれたらしいという佐織の言葉も信じなかった。その海方に付き合って、進介は一晩中、特犯の部屋で待ち続けていたのだ。しかも、筒見順は海方を裏切ったばかりではなく、他殺屍体で発見されたのだ。海方が不機嫌なのも当然と、進介は黙って聞き過ごすことにした。  屍体は窓側の六畳の部屋で、のめるような姿で倒れている。  最初、それを見たとき、進介は危く貧血を起こしそうになった。後頭部を一発、と聞いてはいたが、弾は額を突き抜けて、顔の半分が爆《は》ぜてなくなり、畳や壁に血と脳が飛び散っているという有様だ。 「おい、聞こえているのかね」  と、海方は進介に言った。 「……はあ」 「斎野市六、こう聞いて、何も感じねえのか」 「…………」 「斎野市六とは、賽《さい》の一六てえことだ」  海方はかなり上手に壺皿を振る手付きをした。 「あ、すると、その男は偽名なんですか」 「しっかりしろよ。それも、賽という字を当てたとすると、こりゃあ、丁金組が臭うね。ここはアジトだ。見ていねえ、今に面白えものがぞろぞろ出て来るから」 「筒見を撃ったのは丁金組の者でしょうか」 「違うね。自分のアジトで仲間を殺し、他人に見付かるまで放って置くばかはいねえ」 「自殺じゃありませんね」 「好きな歌を好きな女の声で聞きながら自殺するのも悪くねえが、今度の場合は違う。さっき、壁に食い込んだ弾を見ただろう。多分、銃は三十二口径のリボルバーだが、佐織が聞いた音の様子だと、どうやらサイレンサーが付いていたようだ。銃は後頭部に接射されているが、サイレンサー付きだと銃身が長くなるから、自分の手じゃあ無理だ。第一、この部屋に銃が見当たらねえ」 「窓が全部開いていて、ブラインドも上がっていました。ドアには鍵も掛けられていなかったんですね」 「犯人の仕業だな。犯人は筒見を撃ってから窓を開けて逃走したんだ。窓には犯人らしい人物の指紋も残っていたぜ」 「なぜ、窓を開けたんでしょう」 「七時に、屍体が発見されるためだ。遅くなると、丁金組の者が来るかも知れない。そうするとまずいと思ったんだろう」 「丁金組は筒見の屍体を隠してしまう、と思ったんですね」 「そうだ」 「じゃ、犯人は丁金組のアジトを警察に教えるために、筒見を殺したんですか」 「そりゃ、考え過ぎだろう。アジトを教えるなら、電話一本ありゃ、済む」 「銃は接射されているんですね」 「そうだ。銃創を見りゃ判る。毛髪が焼けているじゃないか」 「後ろに廻った犯人を、筒見は気付かなかったんでしょうか」 「電話の最中だったからな。顔見知りなら、簡単だったろう。まあ、どうせ畳の上じゃ死ねねえ男だと思っていたが、畳は畳でもこのざまだ」 「僕は筒見の顔を知りませんが、この傷では人相も大部変わっているんじゃないんですか」 「そう、変わっている」 「それでも、筒見ということが判るんですか」 「ああ、判るな」 「……もしかして、これが似たような顔立ちの男だとは?」  海方は尖った鼻を進介の方に向けた。疑わしそうな表情だった。だが、疑いは屍体に向けられているのでなく、進介の思考力に向けられていることがすぐに判った。 「思いませんねえ。ま、その証拠でもお見せしましょうかね」  ちょうど撮影が終ったところだった。進介は警察医に声を掛けた。 「ちょっと、お手数ですが、被害者の背中を見たいんです。その男の背中には、四つの戒名が彫ってあるはずです」  警察医はうなずいて、すぐ、筒見が着ているセーターをまくり上げた。警察医は言った。 「……戒名は六つありますよ。もっとも、最後の二つは戒名と言えるか、どうか」 「六つ?」  海方は屍体の傍に寄った。進介も筒見の背を見た。医者の言う通り、六行の青黒い文字が見えたが、その内、最初の四行の最後にはそれぞれ信士という字が読めるので戒名と言えそうだ。しかし、五行目と六行目は違う。 「……俗名 六山代造」  海方は五行目の文字を読んだ。 「そして、最後が、臆病蕩児《おくびようとうじ》——」 「六山代造とは、昨日、競馬場で殺された六山代造のことでしょう」 「としか考えられねえの。六山を殺したのが筒見だということは、これでも判る」 「しかし、戒名じゃありませんね」 「戒名がつくまで待てなかったんだな」 「じゃ、臆病蕩児というのは? 筒見はまた誰かを殺したんでしょうか」 「臆病蕩児というのが変だ。これは、自分自身のことを叱った文字のようだ」 「すると、筒見は自分が殺されるのを知っていたんですか」 「臆病蕩児が自分のことを言ったのなら、そうだ」  そのとき、隣の部屋の方が騒がしくなった。 「見や、俺の言ったことが適中していくようだぜ」  進介が見ると、押入れから引き擦り出された段ボール箱が開けられて、黒光りする数多くの拳銃が捜査官の手によって畳の上に並べられている。大きなビニール袋も発見された。白い粉のようなものが詰められている。麻薬と思えば、まず間違いなさそうだ。  だが、海方はそれには全く関心を寄せない。消されたテレビの上に載っている印刷物を手に取ってしきりに眺めている。進介が見ると、折り目のないアート紙にカラー印刷されたマンションの広告だった。 「見や、と言っても判るめえが——」  海方は相変らず憎まれ口を叩く。 「この部屋を見たところ、古新聞が一枚もない。まあ、住まいに使っている家じゃあねえから、新聞など取らなくとも不思議はねえが、とするとこの広告は新聞の間から出て来たチラシじゃあるまい。といって、ドアの郵便受けに差し込まれていたものでもない。ご覧の通り、折り目がない。二つに折らなきゃ、あの受け口に入らない大きさだ。その上、マンションの発売日は十二月一日としてあるだろう」 「……つまり、この広告は、ごく最近、直接外交員の手から手渡されたものだ、というのですね」 「ほう、鋭くなってきたな。俺と一緒にいると、どうも頭の良いのが移るらしい。勿体ねえの」 「もしかすると、その外交員は筒見と顔を合わせていたかも知れない」 「俺のヒントなしでそこまで考えりゃ、満点だわ」 「すぐ、この会社に連絡します」 「俺は特犯の部屋に帰っている。まあ、この事件も終ったようなものだから、犯人を捕えたら起こしてくれ」  海方は進介に捜査を押し付け、部屋に帰って一寝入りする気らしい。  現場の電話は指紋係が仕事をしていて使えない。進介は建設会社の電話番号を控えて外に出た。  公衆電話ボックスに入り、ダイヤルを廻す。  板橋にある久松建設という会社。幸い、現場の地区を担当していた外交員が会社に出勤していた。 「主に、アパート暮らしをしている家庭を訪問します。住まいが粗末なほど、案外金を溜め込んでいるものでね」  生意気そうな若い男の声だった。 「昨夕も家庭訪問をしていましたか」  と、進介が訊く。 「勿論。休日の夜は書き入れです。亭主が家にいるでしょう。まあ、一杯|飲《や》っている人が多いんで割に良く話を聞いてくれます」 「じゃ、都電の荒川七丁目附近のアパートに、斎野市六という家があるんだが——」  相手は皆まで言わせなかった。 「ええ、覚えています。何だか、おっかない男でしょう」  進介の胸が高鳴った。 「すると、男が出て来たんですね?」 「ええ。最初チャイムを押したんですが返事がないもので、ドアを開けて奥に声を掛けたんです」 「ドアに鍵は掛かっていなかった?」 「ええ。すると、三十ぐらいの男がのっそり出て来て、名刺を出して用件を言おうとすると、無言で頭を振り、顎をしゃくって、出て行けという態度をしました。いや、堂に入っていましてね。ありゃ、これ者でしょう」  相手は電話の向こうで身振りを加えたようだ。 「顔の特徴は?」 「右耳の近くに、傷痕がありました」  間違いなく、筒見順だ。 「でしょうね。ですから、僕は気味が悪くなって、パンフレットだけ置いて退散することにしました」 「部屋には他に誰かいませんでしたか」 「奥は見えませんでしたよ」 「その、正確な時刻を覚えていますか」  相手は初めて口籠《くちごも》った。 「六時から六時半ぐらいの間には違いないんですがね。あ、奥にテレビがついていました。画面は見えませんでしたが、立田一圓《たつたいちえん》の声がしていました」 「……立田一圓?」 「知らないんですか。噺家《はなしか》の一圓ですよ。もっとも有名じゃありませんがね。いえ、僕は大学のとき落語道楽会にいたのでよく知っているんです。一圓はときどき講師で会に来てもらいました。なに、噺は下手なんですがね、うまい噺家は講師料が高いし、といって若手じゃ値打ちがないもんで、一圓あたりが手頃だったんです」 「その一圓は、何を話していましたか」 「……何しろ、あのお兄さんに気を取られていましたからね。そうそう、ドアを閉めるとき、全く良い度胸をしてるね、という言葉が耳に入りました。例の調子で」  相手はその声色を使ってみせたが、進介は一向にぴんと来ない。 「それを聞いて、へえ、珍らしいこともあるものだ。一圓がテレビに出ているとはね、と思ったものです。あの時間帯なら多分〈お笑いクリニック〉あたりじゃないでしょうか。局に頼んでビデオテープを見せてもらい、全く良い度胸をしているねという台詞《せりふ》のところをチェックすれば、そのときの時間が秒単位で判るでしょう」  そんなことは言われるまでもない。  進介は礼を言って電話を切り、その足で資料室に行って前日の新聞を見る。  久松建設の外交員が言った通り〈お笑いクリニック〉は毎週火曜日の夕六時から六時四十五分までの番組だった。しかし、番組表には立田一圓の名が見当たらない。  外交員の話では売れていない噺家だというから、端役《はやく》で出演していたのかも知れない。電話で局に問い合わせると、一圓さんなら出演料を貰っても内の番組には使いたくありませんという冷たい答が返って来た。  それなら、違う番組だろうか。寄席番組は他には見当たらない。一圓が出ていそうな番組は時代劇「びいどろの筆」ぐらいしかない。進介は再びダイヤルを廻したが、この方はすぐ答が判らない。番組制作は下請けの会社のようで、いくつもの会社から会社へ電話を掛け直した挙句、担当のディレクターが出て一圓は通行人にも出ていませんと言った。  万が一と思い洋画ロードショウを放映している局にも電話をする。洋画の吹き替えかなと思ったのだが、これも手間が掛かった結果、一圓は勘が悪すぎて吹替えが出来ませんという答を得ただけだった。  となると、あとは六時台の局を片端から当たってみるしかなく、クイズ番組からニュースデスク、最後には高等学校講座数学I「直線の方程式」という番組にまで問い合わせた結果、一圓はどのテレビ局にも出演していなかったことが判った。  テレビでないとすると、ラジオの声だったのかも知れない。  それにしてもラジオ局が多すぎる。舞台中継、文化時評、ディスクジョッキー、モーツアルトの交響曲第四十一番「ジュピター」……  最後に頭の痛い番組が残った。「あなたの意見」という題名で、漫才師が街へ出て不特定多数の市民を相手にナンセンスなインタビューが雑然と集められている番組だ。名前が売れていない一圓は出演者としてでなく、質問を受ける客として声が流れた可能性もある。  早速、ラジオ局へ問い合わせてみたが一向に要領を得ない。こうなれば実際に局へ出向いて行って録音テープを聞くしかない。  資料室を出たときは頭がふらふらで、朝食前に電話で呼び出された進介は無闇に腹が減ってしまった。時計を見ると十時を過ぎている。  一応、海方に報告しようと思い、特犯の部屋に戻ると、 「結局、筒見の奴は、間違えて六山代造を殺したんですよ」  と、言う声が聞こえた。     四  四課長、大室親志《おおむろちかし》が特犯の部屋に来ていた。  海方ほど灰汁《あく》の強い男ではないが、暴力団を相手にするだけあって、かなり迫力のある巨体の持ち主だ。廊下にまで聞こえそうな、割れ鐘のような味のない大声を出す。  部屋には海方、角山刑事部長、三河特犯課長を初め、数人の捜査官が四課長を囲んでいるところだった。海方がすぐ進介の方を向いた。 「どうした。外交員の方は?」  全員の視線が集まって、進介は肩身が狭かった。 「外交員の方は判りましたが、どうもまだはっきりしない点があります」 「じゃ、ちょうどいいや。今、大室さんの話を聞いているところだ」  海方は半分椅子からずり落ちそうな恰好で大室の方を向いた。 「じゃ、続きを願います」 「よしきた」  大室は盛大に煙草を吹き上げた。 「丁金組じゃ、二年ばかり前から〈チョウキンローン〉という会社を立てた。小口金融、まあサラリーマン相手の金融会社だが、最初から貸せばいいという主義で、返済能力のない者までに気前良く金を貸し、悪どいやり方で返済金を取り立てていたんだが、最近、警察の取締りが厳しくなって、多額の金が回収不能になってしまった。焦げ付いた金は増えるばかり、二進《につち》も三進《さつち》も行かなくなった丁金松吉は、困り果てて窮余の一策をひねり出したんだが、これがまたとんでもない企みだった」 「負債者へ見せしめのため、その内の一人を叩き殺す、というものでしょう」  と、海方が言った。  進介は海方の発想にびっくりしたが、大室四課長は大声であははははと笑い、 「亀ちゃんにあっちゃ敵《かな》わねえ。そうなんだよ。負債者の一人が殺されて、それが明らかにプロの手に掛かったものと判りゃ、他の者は皆青くなって返済に来る、そういう思惑だ」 「で、その仕事を頼まれたのが筒見順てわけだな」 「そうそう」  海方と大室はてきぱき話を進めて行くが、進介はこの乱暴すぎる話に取り残されるような気持ちになって、口を挟んだ。 「それは、関係者から聞いたんですか」 「いや、直接、丁金松吉の口から聞き出した」  大室は事もなげに言う。 「この機会だからな。ずっと待っていたんだ。早速松吉を連れて来て、ちょっと逆さに振ってやったらすぐに吐き出した」  もし、居合わせたら、手伝わされたかも知れない。進介は言った。 「……それで、その生け贄《にえ》にされたのが、六山代造だったんですか」 「それが、違った」 「六山も借金を抱えていましたよ」 「六山の借金はチョウキンローンからじゃなかった。別な会社と関係していて、丁金組とは無縁だった」 「それじゃ、どうして六山が殺されてしまったんですか」 「筒見の勘違いさ。丁金松吉が筒見に指名した奴は藤上千次《ふじかみせんじ》というちんぴらで、この男の負債は利息がほとんどだったから、殺してもあまり会社の腹は痛まない」 「じゃ、六山とその藤上とはよく似ていたんですか」 「まるで似ていない。六山は五十代で藤上は二十代。金がなくとも着るものは贅沢《ぜいたく》でいつも女と一緒にへらへらしている」 「どうしてその二人を取り違えたんでしょう」 「酔ってたかな」 「人違いするほど酔っていて、あんな美事な殺しができるでしょうか。それに、筒見は麻薬を止めています。勝畑病院の秘書もはっきりそう言っていました」 「まあ、いいや」  と、海方がもぞりと口を挟んだ。 「間違いに手違い、どこにもある奴さ」  海方や大室が動物的な勘だけでものを言っているのが不満だった。大室が部屋を出て行くと、海方が進介に言った。 「大室をやり込めるんなら、筒見の背に六山代造の彫物があった。だから六山は藤上に間違われて殺されたんじゃねえ、ぐらいのことを言わなきゃ、だめだ」 「……海方さんはなぜそう言わなかったんですか」 「大室にゃ、色色義理もあっての。それより、あの方はどうなった?」  進介は久松建設の外交員から聴き出した話をして、これからラジオ局へ行くつもりだったと言った。  海方は面倒臭そうに聞いていたが、進介が話を終えると、 「そりゃ、無駄だね」  と、言った。 「なぜですか。僕は放送局全部を調べたんです。残るのはその局だけです。あの部屋にはビデオデッキはありませんでした」 「いやね、もし、仮りにその立田一圓がその番組に出ていたとする。それで、一体何が判るのかね」 「筒見順のはっきりした死亡時刻が判ります」 「判って、どうなる。死亡時刻から犯人が顔を出すかい」 「でも、被害者の死亡時刻はきちんとさせて置いた方がいいでしょう」  海方は気の毒そうな表情で進介を見た。 「どうやら、ちょっと俺の傍を離れると、すぐ元の頭に戻るようだの」 「じゃ、どうしたらいいんです?」 「俺なら〈お笑いクリニック〉に出ていないと判った時点で、立田一圓がその部屋にいたと考えるな」  言われて、返事が出なくなった。  相手が芸能人だという先入観に支配されていたのかも知れない。久松建設の外交員も、実際に聞いたのは声だけで、単純にテレビを連想したということも考えられる。  何だか、動物的な勘に負けそうだった。進介はあわてて電話帳を繰った。立田一圓の住まいは江東区の森下だった。勝畑病院の近くだ。進介は嫌な予感がした。電話は呼出音が続くだけだ。 「一圓が独り者だとすると、寄席へ連絡した方が早そうだ」  と、海方が助言した。  口惜しいが海方の言う通りだった。一圓は本郷にある「むら咲《さき》」という席亭に九月の二十日から三十日まで出演していることが判った。 「とすると、一圓は拳銃を持っているぞ。気を付けるんだな」  海方はもう一圓が犯人だと決まったと言わんばかりで、見るからに重そうな腰を、よいしょと椅子から持ち上げる。     五  本郷の弓町。表通りを外れた裏道の突き当たり。  むら咲は太い柱を使った古い二階建ての席亭で、玄関の両側に幟《のぼり》が立ち、軒先には赤い提灯が並んでいる。  進介が綺麗に打ち水をした玄関に入ろうとすると、 「おう、こっちだ」  海方は勝手を知ったように横の露地に入り、裏手のガラス戸を開ける。見習いのような若い男が取次ぎに出て、すぐ一階の居間に通される。むら咲は二階が客席で裏階段が楽屋に通じているらしい。階段の下の廊下を通るとき三味線の音が聞こえた。  席亭の主人は紬《つむぎ》の着物に角帯、温和そうな男で、長火鉢の前で小さな本を読んでいたが、二人の顔を見ると奥の卓袱《ちやぶ》台《だい》の方に席を移し、座蒲団を勧める。寄席文字で印刷された名刺には「鈴木辰三郎」とあった。 「一圓が殺人の容疑者ですって?」  鈴木辰三郎はおよそ信じられないというように首を振った。  床の間には山水の掛け軸。水盤には彼岸花。とても殺人事件を語るような部屋ではない。 「一圓さんのことはよく存じております。子供のときからの付き合いでしたからね。一圓さんの親父も囃家で、その時代からですから、月に一度は出演してもらっているのですが、どうもいけません。一圓さんが出ると、賑《にぎ》やかだった観客席がとたんに陰気になってしまうんです。なに、私が言ったって聞きゃあしません。一徹な男で自分が名人だと思っているんですからね」 「一圓は伯馬《はくば》の調子を取っているようだがの」  と、海方が言った。 「おや、神田伯馬をご存知でしたか。こりゃあお見それしました。おっしゃる通り、当人は名人五代目伯馬を襲《つ》いでいるつもりなんですが、悪い癖ばかり似てしまいました。伯馬の悠揚迫らない調子を一圓さん演じるととたんに鈍間《のろま》臭くなってしまうんです。今のお客さんはテレビの機関銃みたいな喋り方に慣れているんです。そこへ持って来て、一圓さんのは実直に枕を振ってから人情噺に掛かるんですが、当人はしとしとたっぷり語るつもりが、だらだらぐずぐずに聞こえて、大方、一圓さんが出るとお客さんも心得て便所へ立ったり物を食べたりし始めるんです」 「一圓は他の席亭へはあまり出ねえようだの」 「そんな調子ですからねえ。どの席亭も一圓さんを敬遠気味なんですよ。内はまあご覧のように古風が売り物で、私で七代目、結構一圓の下手も趣きがあると言って下さる大様なお客さんもいらっしゃいます」 「じゃ、生活は楽じゃなさそうだな」 「ええ、そりゃ大変らしゅうございましたよ。見栄の芸人ですから、他人には言いませんが私にはいつも愚痴ばかり、生活保護を受けている有様で」 「一圓には神さんは?」 「ええ。神さんにも恵まれませんでしたねえ。死別したり離婚したりで。でも、四十になってから再婚した神さんとはずっと一緒で、相手の女も同じような運の人だということです」 「電話をしても誰も出なかったがの」 「最近、一圓さん夫婦は一緒に暮らしてはいないようですよ」 「別れたのか?」 「いえ、別れたんではなく、住み込みで働きに出ているんです。確か、三浦半島の旅館の下働きとかで」 「その、旅館の名は?」  鈴木は立って、長火鉢の猫板の上から小さな本を持って来た。よく見ると旅行のパンフレットだった。鈴木はそのページを繰った。 「これです。〈いるか屋〉という三浦三崎の旅館です」  海方が目配せした。進介はすぐいるか屋の住所と電話番号を手帳に書き付ける。 「それにしても、ご主人。何だか手廻しがばかにいいようでしたな」  海方は鈴木が持っている旅行のパンフレットを見て言った。鈴木はパンフレットをぽんと叩いた。 「そうなんです。実は、刑事さんがいらっしゃる前に、一圓さんの奥さんの勤め先を知りたいという電話があったんですよ」 「ほう……」 「それで、いつか一圓さんが、ぜひ三崎へ遊びにいらっしゃい、嬶《かかあ》の旅館にお泊りなら、大サービスしますと言って置いて行ったこのパンフレットを思い出してその電話の人に教えたばかりなのです」  海方はパンフレットをひねくり廻した。 「お借りしてよろしいかな」 「どうぞ、お持ちになってよろしいです」 「で、その電話の相手の名は?」 「言いませんでした。何でも、一圓さんの奥さんにお世話になった者だと言うだけで」 「……声は?」 「若い、女でしたね」 「若い女……それは、いつ頃でしたか?」 「……お昼を、ちょっと過ぎたときだったと思います」  海方が指の骨をぼきっと言わせた。 「テレビのニュースを見たんだな」 「え?」 「実は今朝、筒見順という男の射殺屍体が発見されましてね。ご存知ですか」 「いえ、その時間は忙しいので、いつもテレビは見たことがありません」 「じゃ、丁金組という名は?」 「……聞いたこともありません」 「一圓は暴力団と関係していやしませんでしたかな」 「賭博ですか」 「賭博とは限らない。暴力団に友達がいた、出演を頼まれた、何でもいい」 「一圓さんは運のない男でして賭博は下手で大嫌い。組の者に友達がいるなどということを聞いたことがありませんねえ」 「その電話の女というのは、テレビか何かのニュースで筒見の死を知って、一圓の行方を追い始めたんだと思う」  進介はまた海方の独断が始まったと思ったが、その独断は当たる確率が高いので今では無視することはできない。 「す、すぐ、いるか屋へ電話しましょう。ご主人、電話をお借りします」  と、進介が受話器を取り上げようとするのを見て海方が言った。 「まあ、あわてなさんな。一圓の奥さんの名を聞いたかね?」 「そ、そうでした」  鈴木は進介に井舞菊子《いまいきくこ》という名を教えた。  すぐ旅館の係が出たが、菊子は二、三日休暇を取って留守だった。よく訊くと、昨夜菊子のところに電話があり、菊子はその電話を聞いて休暇を申し出たのである。 「その電話とは、多分、一圓だな」  と、海方が言った。  特犯の部屋に戻ると、色色な情報が待っていた。  まず、六山代造を刺した合口《あいくち》の柄から指紋が採集され、照合された結果、筒見順の指紋と一致した上、筒見の爪の間からは微量な血液が発見され、六山の血液型と同じだったこと。これによって六山殺しの犯人は筒見だと確定した。  次に、丁金組のアジトから多額の現金が消えていたことも判った。殺人現場の部屋の窓からは、むら咲から持って来たパンフレットにあった一圓のものらしい指紋が採取された。 「筒見を殺した一圓がその金を持って嬶《かかあ》のところに逃げ出したんだ」  と、海方が言った。 「さて、久し振りに城ケ島などを見物して来るか」 「一圓はもっと遠くに逃げているとは考えられませんか?」 「なあに、せいぜい半島内をうろうろしているぐらいだろう。犯人は土地鑑のないところへは行きたがらねえもんだ。第一、俺は昨夜ろくに寝ていねえ。それ以上遠くは真っ平だ」  まるで、自分の都合で犯人が行動しているようなことを言う。 「それから小湊君、乙羽佐織の声を聞いてみねえか」 「はあ?」 「さっき、とろりとして悪夢を見た。一圓が勝畑病院のD号室のベッドで唸ってたんだ。それが気になってね」 「判りました。一圓が勝畑病院に関係あるかどうかですね」 「そうでないことを願うがね」  進介は早速、勝畑病院の秘書室に電話した。佐織が出てすぐ調べますと言ってくれた。折返しの電話で、そういう人物の心当たりはないと言って来た。進介は念を押した。 「大丈夫よ。外科の柳矢先生にもカルテを調べてもらったわ」 「忙しいところ、有難う」 「あ、ちょっと待って」 「僕に用?」 「ええ。今晩、会えない?」 「これから捜査に出るんだ。ちょっと時間を約束することはできないけれど、何か、用かい」 「……いえ、別に」 「じゃ、仕事を見て、また電話するよ」  進介は勝畑病院に一圓は関係ないとだけ報告した。 「じゃあ、一圓を捕えれば、万事、終わりだな」 「一圓は丁金組に怨みを持っていたんじゃないでしょうか」 「ほう、なぜだ?」 「筒見の屍体がアジトで発見されたことで、丁金組は決定的な打撃を受けることになったからです」 「なるほどな。しかし、事件はなるべくそう早く割り切らねえ方がいい」 「なぜです」 「人が人を殺すこと自体、割り切れねえことだからだ。そんなことより、早く出発の準備をしろ」  海方は拳銃を取り出して点検を始めた。   三章 複合の事故     一  競馬場で大工の六山代造を刺殺した、丁金組の幹部組員、筒見順はその日のうちに射殺されてしまった。その犯人は立田一圓という噺家《はなしか》で、三浦三崎の旅館に住込んで働いている妻の菊子のところへ立向かった形跡が強い。  進介と海方は警視庁の乗用車でただちに三崎へ直行した。運転をする進介の耳に、無線で刻刻と情報が入って来る。  所轄の警察の捜査によると、菊子は前日、十一月三日火曜日の夜、立田一圓らしい男の電話を受け、その日のうちに休暇を取って旅館を出ている。旅館では祭日の朝発つ団体を送り出したところで、気軽に休暇を与えたが、どこに行くとは聞いていない。同僚の話では、菊子は電話があってからは落着かなくなり、取るものも取りあえずといった感じで旅館を出て行ったという。  一方、警視庁では三浦方面に緊急配備を敷き、各旅館や民宿に一圓夫婦らしい人物が立ち寄ったかを捜査するとともに、主要道路で自動車の検問が開始された。  立田一圓は芸能人だが、根が地味で噺も面白くないほどだから、普段の姿はごくありふれた五十男に違いなく、菊子は五歳下だがこれもどこにでもいそうな主婦だという。上手に立ち廻れば捜査網をくぐり抜けることは不可能ではないだろう。だが、海方は底抜けに楽天的で、一圓は自分の掌の中にいるのも同じだと考えているようだ。 「一圓は丁金組の金を所持している。一晩で使い切ることもねえだろう。何かの弾みでこっちのものになると有難えがの」  などと、警察官にあるまじきことを言う。 「しかし、筒見が殺されてから、十五時間近く経《た》っているじゃありませんか。その間、一圓は三浦にのんびりしているでしょうか」 「ほう、相変らず心配性だの。だが、一圓はまだまだだと思っている」 「まだまだ?」 「一圓は自分と筒見のつながりが、当分警察にも判るまいと思っているからだ」 「なぜです?」 「一圓はアジトの窓に、堂々と自分の指紋を残していたじゃないか。自分には前科はない。その点、自信があったんだな」  第三京浜道路に入り、新多摩川大橋を渡ると海方は一時静かになり、しばらくすると騒がしくなった。往復の大鼾《いびき》をかき始めたのだ。  断続的に無線が入るが、一圓と菊子の足取りは依然として判らない。  大体、一圓が三崎へ向かったというのでさえ、海方の独断に過ぎない。第一、一圓と筒見のつながりさえ確かではない。なぜ、突然一圓が丁金組のアジトへ現れ、筒見を殺して大金を奪い去ったのか。一圓がアジトへ忍び込んだとも思えないし、筒見が手引きしたとは更に考え難い。  新保土ケ谷ICから横浜横須賀道路に乗って一路南下する。ほどなく横須賀。道は京浜急行に沿って海岸を走る。空は雲が厚くなり、今にも泣きだしそうだった。海面に白い鴎《かもめ》が飛び交《か》い、上空には黒い鳥が舞っている。進介は海の香りが懐しかった。  三浦海岸を過ぎたころ、ふと、前を走っている車が気になった。進介はずっとその車の後を走っていたのだろうか。海岸の景色の方に気を取られていたのだ。三崎に向かう道が海岸を外れたとき、前の車の運転がやや荒っぽいことに気付いた。  ちょっとしたカーブだったがタイヤは路肩すれすれにかすって小砂利を弾き飛ばした。慣れない道に違いない。それとも、何かに気を散らしたのか。  その車はクリーム色のツードアの真新しいセダンで東京の品川ナンバーだった。  車に乗っているのは若い男女だが、運転をしているのは女の方だった。進介は追い抜いて二人の顔を見ようとしたが、速度を上げると相手も足を早める。進介はふと、その車も自分の行こうとするいるか屋に向かうのではないかという気がしたが、予感は外れた。車は市街に入ると、真っ直ぐに城ケ島大橋の方に走り去った。  三崎町に近付くと、海方は鼻をうごめかして目を開いた。 「魚市場の臭いがするの。もう近くか」 「そこに、看板が見えます」 「ほう、雨が落ちて来た。城ケ島の雨とはお誂《あつら》え向きだな」  いるか屋は風格のある木造二階建ての旅館だった。ゆったりとした前庭に、びっくりするほど太い松が立っている。  車寄せに停めると、海方は待ち兼ねたように外に出て、尖った鼻を空に向けて伸びをした。  すぐ、玄関から派遣されている若い二人の刑事が出て来る。 「お疲れさまでした」  と、陽焼けした刑事が二人を労《ねぎら》う。 「なかなか、田舎道は荷だの」  海方は自分が運転でもして来たように言った。 「ところで、その後の様子は?」 「同じです。一圓らしい男は現れません」  海方はゆっくりと唐門風の玄関の屋根を見ていたが、建物の方へ歩き出した。磨き込んだ玄関を上ると、すぐ左側にフロントがある。フロントには部厚な眼鏡を掛けた男が帳簿を見ている。 「警察の前にも、電話があったはずだがね」  海方は顔を突き出して言った。 「……は?」  フロントの係は刑事達を見較べ、すぐ事情を察したようで訊問を受ける顔になった。 「警察が井舞菊子のことを訊く少し前に電話があったはずだ。多分、若い女の声だったと思うが」 「……はい、ございました」 「で、何と答えた」 「井舞は今日、休暇でいません。そう申しました」 「すると?」 「行く先をお尋ねでしたから、それは判りかねますと答えますと、そうですかと電話を切り——」 「まだ、他に言やあしなかったか?」  フロント係はカウンターに載っている電話機を見、口の中でぶつぶつ言っていたが、 「……そう、白秋《はくしゆう》館さんの電話番号を知りたいというのでお教えしましたよ」  海方の目が、すっと細くなった。 「白秋館というのは旅館かね?」 「はい、城ケ島の南にございますホテルで」 「行きゃあ、判るな」 「はい。遠くからも見えます。白い建物で」 「電話を借りたいがな」 「白秋館さんですか」 「いや」  海方の首が進介の方を向いた。 「むら咲《さき》だ」  進介はすぐ手帳を取り出しむら咲の番号を廻す。海方は横から手を伸ばし、受話器を奪い取った。 「——やあ、鈴木さんですか。警察の海方です。先程はどうも。で、訊き洩したことがあります。いるか屋の電話番号を教えた女性ですがね。他に何か訊かなかったでしょうか?」  海方は喋りながら、進介を見て外の方へ人差指を突き出した。進介はすぐ外に出て、車のエンジンを掛ける。  すぐ、海方が玄関から飛び出して車の中に転がり込んだ。 「白秋館ですか」 「そうだ。見っともねえ。素人に先を越されたようだ」  半ドアのまま進介は車を発車させた。 「女はむら咲から何を訊き出したんですか」 「三浦附近で、一番|贅沢《ぜいたく》な旅館をだ。鈴木はあのパンフレットを見て、白秋館の名を教えた。一圓は日ごろ、金があったらその一番良い部屋に泊りたいと言っていたそうだ。だが、パンフレットは汚れていて、白秋館の電話番号がよく読み取れなかったという」 「なぜ、その女は三浦附近で一番贅沢な旅館など訊いたのでしょう」 「一圓がそこに立寄ると見たのだな」 「今の一圓は金を持っています」 「そうだ。その女は手強《てごわ》いぞ」 「……さっき、前に走っていた車で、若い女が運転していた品川ナンバーのセダンがありました」 「何だって?」 「車の中にはもう一人若い男がいましたが、ちょっと荒っぽい運転で——」 「何か、感じなかったか?」 「……気にはなりました」 「なぜ、尾《つ》けなかった?」 「でも、いるか屋へ行くのが先で——」 「……いいかね、小湊君。そういう勘て奴は凄く大切なんだ」  海方は急に猫撫で声になった。不機嫌の表現なのだ。 「君がいつも言う、なぜだとか、証拠だとか、動機だとかいうよりずっと大切なことなのですよ。だから、その車が気になったら、すぐ尾けるべきでした」  車はインターチェンジを登り、料金所から一気に城ケ島大橋を駆け渡る。雨はどうやら本降りになり、灰色の海面を濡らし始めた。港や橋の下に点在する大小の漁船はじっと雨が通り過ぎるのを待っているように見える。  島に渡りしばらくすると、すぐ白い建物が見えた。断崖の突端、ヨーロッパの古城のような造りだ。規模は大きくはないのだが、車を進めると城門があり、赤い制服制帽の守衛が出て来た。 「ご予約でいらっしゃいますか」  丁重に言う。海方はじろりと相手を見て、 「お初回《しよかい》じゃ入れてもらえねえのか」  と、下司《げす》っぽく言った。 「はい。当ホテルは会員制でございますので」 「なるほど、ここに穴があった」 「は?」 「いや、実は、こういう者だ。人殺しの容疑者がここに立寄ったらしいのだ」  と、警察手帳を突き付ける。 「や、ちょっとお待ちを……」  守衛はあわてて白い受話器を取り上げる。海方は手帳を内ポケットに戻して進介に言った。 「聞いたか。当ホテルは会員制だと。ここの警察の詰めが甘くなったのも無理はねえが」 「一圓は会員なんかじゃないでしょう」 「なに、菊子の手廻しだ。いるか屋は同じ土地の同業者さ。知り合いがいるかして味良く頼み込んだのだろう」  そのとき、白秋館の裏手から、黒いセダンが走って来て進介の横を通り抜けて走り去った。営業ナンバーで、宿泊客の呼んだハイヤーらしいことは判ったが、後座席は気に止めなかった。 「一圓だ」  と、海方が叫んだ。 「一圓が乗っていた。すぐ追え」  一方通行だった。進介は急いでアクセルを踏み、玄関前の花壇を廻って城門を通り抜けた。 「玄関前に別のクリーム色のセダンが停まっていました」  と、進介は言った。 「おう、見たぞ」 「あれが品川ナンバーの車です」  海方は後ろを振り返る。 「や、そいつも追って来るぞ」 「若い二人連れでしょう」 「……顔はよく判らん」 「速度を落としましょうか」 「いや、一圓を逃してはならねえ。一圓の方が大事だ」  黒塗りのハイヤーは城ケ島大橋に向かう。海方は無線機を取り、一圓の車を発見、今、大橋を渡るところだと報告した。 「よし、今度こそは逃さねえ」  三浦半島は狭い。半島を出ぬうち検問に掛かるはずだ。ところが、ハイヤーは大橋を越すと魚市場の方へ向きを変えた。 「いるか屋へ帰るつもりでしょうか」 「だったら、窮鳥懐《ふところ》に入る、って奴だ」  ハイヤーはいるか屋の前庭に停まった。数秒遅れて進介もハイヤーの横に着ける。  ハイヤーの向こう側のドアが開いたところだ。いるか屋の玄関から二人の刑事が出て来るのが見えた。進介は車を出てハイヤーの後ろを廻った。ハイヤーの傍に黒っぽい背広を着た男が背を丸めている。 「一圓さんですね?」  その瞬間、男の首筋から、血《ち》飛沫《しぶき》が上がった。     二  男はそのまま前にのめると、崩れるように動かなくなった。  続いて、ハイヤーの後ろ座席から小柄な女性が外に出て来た。 「……あら、気を付けないと、だから、飲み過ぎると言ったでしょう」  女性は男を抱き起こそうとしたらしい。ちょっと身体を屈《かが》めたが、すぐ全身がこわばってしまった。 「井舞……」  菊子さんですね、と言おうとしているのだが、進介の舌も同じ状態になっていた。玄関から出て来た二人の刑事も棒立ちだ。ハイヤーの運転手があわてて外に出て来る。 「お客さん、車の止まらないうちにドアを——」  そして、絶句した。  雨が溢れ出る血を散らす。地面に描かれた血の輪はみるみる拡がっていく。同時に、男の顔色が土色に変じ、ただの物質に変わろうとしている。 「どこの雨も、変わり映えがしねえの」  海方の声だった。  進介が返事をしないので、海方も異様な空気が判ったようだ。海方の喉《のど》が鳴った。 「すぐ、病院へ連絡します」  と、陽焼けした刑事が言って、いるか屋の玄関に駆け込んだ。 「誰が殺《や》った?」  海方は被害者の足元に立って全員を見渡した。進介は額の雨を掌で払った。 「僕がここに来ると、その人が車から出たところで、まだ身体を屈めていました。その直後、血が飛び散るのを見ました」  海方は残っている刑事の方を見た。刑事が言った。 「私も同じです。車の音がしたので外を見ると、車の止まらない内にその人がドアを開けて出て来て、すぐ倒れたのです」 「車の中から血を流して出て来たんじゃねえんですね」 「そうです。車から出て、身体を起こそうとしたとき、血が吹き出したのです」  海方は呆然としている女性に視線を移した。 「あんた、井舞菊子さんだね?」  女性は大きく目を開いたままうなずいた。 「立田一圓さんの、奥さんだね?」  今度は、はいと声にして答えた。そして、発声できるのを確認するように何度かはいと言い、次に泣声を上げて被害者にすがり付いた。刑事があわてて抱き止め、引き摺るようにして、いるか屋の玄関へ。 「運転手さんだね?」  海方はハイヤーの横で棒立ちになっている男に声を掛けた。 「はあ——」 「この男は車の中で刺されたんじゃねえのか?」 「とんでもありませんよ。車の中では元気でした。車が止まらない内に自分でドアを開け、外に出たくらいですから」 「なるほど」 「私はてっきり、それで転んだものとばかり思いました」  被害者はもう全く動かない。右の頸部にぱっくりと傷口が開いている。頭の近くに、鋭く磨ぎ澄まされた大振りの鰺《あじ》切り庖丁が落ちていて、血に染まった柄に二つの輪が重なった焼印が見える。 「しかしな、車の中で刺されたのでないとすると、刺した人間がいねえんだがな。思い出して見や。この車が到着する前、この玄関前には誰もいなかった」 「……そうです」 「今の二人の刑事さんは、車が着くのを見て玄関から出て来た」 「……そうです」 「とすると、誰がこの人を刺したんだ?」 「そんなこと、知っちゃいませんよ。幽霊か何かでしょう。とにかく、この人は元気で車を降りたんですからね」  それでも海方は納得しない様子で、ハイヤーの中に首を突っ込んだ。 「ここに、小さな手下げ鞄があるな」 「お菊さんのですよ」 「ほう……井舞菊子を知っているのか」 「ええ、いるか屋の菊さんは前から知っています。菊さんは三浦の生まれですから」  雨足が強くなった。  玄関から刑事が出て来て、被害者の上にビニールシートを被《かぶ》せた。 「連絡が終りました」  と、刑事が言った。 「おお、そうか。じゃ一先《ひとま》ずロビーで待つか」  海方はロビーで一服するかと思うと、ハイヤーの運転手を相手に訊問を続けた。こんなに積極的な海方を見るのは初めてだ。筒見を殺した一圓を追い詰め、今、一歩のところでその一圓が刺殺され、しかもその犯人が消えてしまった。事態は混沌としてしまい、さすがの海方も、落着いていられなくなったようだ。 「菊子のご亭主は知っているかね?」  運転手は濡れた帽子を脱いでいた。白髪の混じったいがぐり頭だ。 「一圓さんでしょう。顔だけは知っていますよ」 「その一圓はいるか屋へ行くために車を呼んだのかね?」 「いえ。呼ばれたのは今日の昼頃でした」 「……昼、ね」 「ええ。城ケ島を巡りたい、と言うんで昼頃からずっと一緒でした」 「ただの、見物かね」 「そうです。灯台に登ったり、磯に降りて洞門を巡ったり、遊覧船に乗ったりで、子供の遠足みたいに仲良くやっていました」 「二人の態度は? そわそわしたりびくついたりだが」 「いえ、そんな気配は一度もありませんでしたね。ただ、ついさっきのことですが、雲行きが怪しくなったんで、そろそろ白秋館へ引き上げようと、近く迄来たんですが、そこで一圓さんは急にいるか屋へ廻ってくれと言い出したんです。それからのようですね、変に落着かなくなったのは」 「菊子の方は?」 「笑っていました。酔ってわがままになったのだろうと言って。一圓さんはずっと酒を飲み続けていましたからね」 「一圓は何を見たんだろう」 「さあ……」  海方はのろのろと進介の方に鼻の頭を廻した。 「クリーム色のセダンはどうなったかいな?」  進介はあわてて外に出て見た。無論、その車はどこにも見えなかった。 「……済みません。うっかりしてしまいました」 「なに、詫びることなどねえ。俺だってころっと忘れてた」 「あの車の窓から、庖丁を飛ばしたのでしょうか」 「そりゃ、不可能だ。道路からは、一圓の身体がハイヤーと俺達の車の陰になっていた。あの車からでは一圓を殺すことはできねえが、何とも気になる車だ」 「手配します」  進介は刑事に捜査本部のダイヤルを廻してもらい、車のナンバー、色、形を告げた。  戻ると、海方はハイヤーに残されていた手下げ鞄を開いていた。見ると、紙幣の束の上に黒光りのするリボルバーが載っていた。海方は進介の方を見て顔をしかめ、蓋を閉じた。あたりに人がいなかったら、札束をくすねていたかも知れない。  遠くからサイレンが聞こえてきた。  海方は鞄を刑事に渡し、空の両手をぱんぱんと叩いた。疚《やま》しい心が起きていた証拠だ。 「じゃ、一圓の方はお任せするとして、一圓を殺した犯人を見届けに行きますか」  海方は手を叩いた後で自分の尻を叩いた。  言われた刑事は目を丸くした。 「犯人を?」 「なに、ちょっと心当たりがあっての。小湊君、魚市場の方へ頼む」  さっさと玄関の方へ歩いて行く。     三  海岸沿いの町。  小さな魚小売商や問屋が軒を連ねている。露地の向こうはすぐ海で、岸壁に舫《もや》っている漁船が見える。磯の臭いが一際強く感じられる。  進介がゆっくり車を走らすと、海方は窓から身を乗り出し、一軒一軒の家に目を配る。 「昔、大洲藩五万石、脇坂安治というお大名がいましてね」 「……はあ」 「賤《しず》ケ岳七本槍の一人で脇坂安治。まあ、そんなことは知らなくてもいいんだが、この人の紋が輪違い。二つの輪が横に組み合っている紋なんだが、一圓を刺した庖丁の柄にも、同じ輪違いの焼き印が押されていた」 「……それなら、僕も見ました。あれは紋だったんですか」 「というんで、さっきいるか屋へ来た道で、どこかの家の暖簾《のれん》にこの輪違いが染め抜かれていたのを思い出し、加えて、あの庖丁には魚の鱗のようなものがこびり付いていた、というところから……おう、この家だ」  土間に水槽のある家だった。見ると紺の水引暖簾に白く輪違いの紋が染め抜きにされていて、脇坂という名も見える。店の横は空地で、大小の桶や干物用の棚が立っている。進介はそこに車を乗り入れた。  店の前は綺麗に打ち水をしてあるが、人影はない。海方は構わずに土間を通って裏口に抜けた。裏にはひょろりとした柳が一本立っていて、その下で姐さん被りをした老婆が浅蜊《あさり》を剥《む》いている。 「雨になったね」  と、海方は声を掛けた。 「ああ、雨になった」  老婆も友達のような調子で答える。 「明日も降ろうか」 「夜のうちにゃ晴れるね」 「そりゃ、助かる」 「……見ねえ顔だね。お客さんかい」 「なに、通り掛かりだが、三浦の海はいつ見てもいいの」 「どこから来なすった」 「東京だがね。東京の空にゃ、烏《からす》しか住まねえよ。あの屋根に止まっている鳥は大きいね」  見ると、少し離れた建物の屋根に、数羽の鳥が動いている。古びたコンクリートの三階建てで壁には雨の染みが黒く見える。 「……あれかい。あれは鷹《たか》だ」 「鷹——ね」  老婆は仕事の手を休め、前掛けで手を拭いた。 「いいねえ。自然が残っているんだねえ」 「ちっとも良くはねえよ。あ奴《いつ》は泥棒鷹だから」 「ほう……何を盗るんだい?」 「ときどき降りて来て、魚をさらって行くんだ。それがお前、びっくりするほどすばしっこい奴でねえ。この前などは俺の股座《またぐら》から飛び出して鯛を持って行かれたよ」 「そりゃ、災難だ」 「でも、保護鳥とかで手出しはならねえんだと。あんな泥棒をなぜ保護しなきゃならねえのかね」 「被害が大きくなれば市も考えるだろう」 「そうさ。三日前、民生部長がベレー帽を盗《や》られたよ。民生部長は気の短え男だから、猟銃を持ち出してヤキトリにしてくれると暴れ廻って市長と大喧嘩になって面白かったわ」 「鷹は帽子を食うわけはねえから、巣にでもするのかな」 「いや、民生部長の頭は臭えから巣にゃならねえ。鷹の奴は腹が一杯になると帽子をボウル代わりにして遊んでいたわ」 「……もしかして、さっきも何か盗られやしなかったかい」  老婆は眉をひそめて海方を見た。 「見ていたかね」 「いや、見てはいなかったが、あんたの家の焼き印が入っていた」 「……俎板《まないた》の上に置いたまま忘れていたんだ。鷹の奴は魚と間違えやがったんだ」 「そうかい。その鷹はいるか屋の方に飛んで行かなかったかい」 「そうだ。あっちの方に高あく飛んで行った。鷹はいるか屋の辺《あた》りに庖丁を捨てたかね」 「ああ。後でお婆さんにその庖丁を見てもらうことになるだろうな」 「輪違いの焼き印があれば間違いはねえ。その紋は三崎で家《うち》一軒だからね」 「や、有難う。民生部長に言っておこう。鷹は退治されるだろうな」 「そうさ。人にでも当たったらどうなるだ」 「じゃあな。お婆さん、達者でな」  海方はそのまま車に戻った。進介もあわてて後を追う。 「海方さん、あれが真実なんですか」 「お聞きの通りさ」 「……鷹がさらっていって、上空で捨てた庖丁が一圓の首筋に命中した?」 「何だその顔は、それじゃ不服か」 「……すると、一圓を追っていたクリーム色のセダンは?」 「一圓とどんな関係にあるか知らねえが、この事件とは無縁だ。まず、忘れていいだろうな」 「一圓と筒見の関係もまだはっきりしていませんよ」 「だが、一圓は死んでしまったよ。死人に口なしさ。世の中にゃ割り切れねえことがいくらもある。これもその一つさ」 「……もし、鷹があのとき魚と庖丁とを間違えなかったら?」 「そうさな。一圓がいるか屋へ戻って来たところで俺達が逮捕していたろうな。しかし、この落着《らくちやく》の方が楽で助かったな」 「しかし、ちょっと信じられない事故だと思いませんか」 「それは思う。宝くじの一等を当てるより少ねえ確率だろう。だが、相手が一圓だとすると、納得するがね」 「海方さんは、あんな偶然が納得できるんですか」 「相手が一圓だと言ったろう。いいかい、一圓は生涯うだつの上らなかった噺家だ。才能にも恵まれなかったし、運が悪くて賭博にも勝ったことがない。そんな人間に限って、生涯のうち一度はとんでもねえ偶然にぶっつかることがある」 「……そんなものですかねえ」 「そんなものさ。この俺を見や」 「海方さんを?」 「俺だって一生うだつの上らねえ平の刑事だ。しかし、俺が一圓と違うところは、態《わざ》と昇級を見送っていることだろうな」 「態とですって? すると、海方さんは競馬に勝つため、人生を態と恵まれまいとして?」  不美人で性格の良くない女性とも結婚したんですかと言おうとしたが、後の部分は口に出さなかった。海方はにやりと笑っただけだったが、もしそうだとすると、これはもうかなり強《したた》かな男だ。  いるか屋の前は警察や報道関係者でごった返している。それをちらりと見ただけで海方は白けた顔になり、 「ここはお任せだ。署の方へ車を廻してくれ」  と、言った。  警察署で出された茶を飲んでいるうちに、色色な裏付けが報告されて来る。  立田一圓の指紋が照合され、丁金組のアジトに残っていたいくつかの指紋と一致したこと。一圓が持っていた拳銃が調べられ、筒見順を撃ったものだと証明されたこと。同じように一圓が持っていた紙幣は、封印から丁金組のアジトから盗み出された金だということも判った。最後に、一圓を刺した庖丁は、三崎の脇坂魚貝店の女主人が、鷹がさらっていったものだと証言した。  一圓の妻、井舞菊子の話によると、昨夜、七時半頃、突然一圓から電話で呼び出され、白秋館に泊りたくなったので手配するように言われた。菊子はそれを聞いて一圓が酔っているのではないかと思ったそうだ。この土地で育った者なら、誰でも一度は白秋館の客になりたいと思う。菊子もその一人なのだが、白秋館は格式、料金共に高い。とても貧乏噺家が手銭で泊まれるようなホテルではないのだ。  けれども、よく訊いてみると、一圓は酔っているのでも頭がおかしくなったのでもない。多少、まとまった金が手に入ったので、いつも苦労を掛けているお前の夢をかなえてやりたいのだと言う。それを聞いて菊子はほろりとして、少しも金の出所を疑わなかった。早速、菊子は白秋館に勤めている知り合いに頼み込み、一圓と落ち合った。  翌日は昼頃からハイヤーを頼んで城ケ島で遊び、それからは京、大阪を見物という予定を立てた矢先の事故であった。その一圓が筒見という男を射殺し、丁金組の金を持って逃走中だと聞かされても、菊子は絶対に信じようとしなかった。  一方、一圓を追っていたクリーム色のセダンは横須賀の検問に掛かった。車に乗っていたのは若いアベックだったが、挙動に不審はなく、身元もはっきりしていた。一圓の死が奇禍だということが断定された後だったので警察は二人をそれ以上追及しなかった。 「これにてお終《しま》い、目出度く千秋楽、ちょんちょんだ」  と海方が言った。 「後は報告書を作るだけ。小湊君、塩梅《あんべえ》よく書いといてくれ」 「でも、一圓が筒見を殺した動機がはっきりしません」  と、進介は正直な感想を言った。 「おいおい、報告書てのは学生の答案じゃねえ。判らねえことは判らねえとしておきゃいいんだ。一圓は死んじゃったんだから死人に口なしさ。それとも、これから死んであの世まで一圓を追っ掛けるかね」 「それは無理です」 「そうだろう。だから、それでいいのさ。気にするんだったら、俺にだって合点《がてん》のいかねえことがある」 「それはどんなことですか」  海方は、しかし全く気にもしていないような口振りで言った。 「最初の被害者、六山代造は競馬で大穴を当てた直後殺された。筒見順は好きな女の声で好きな歌を聞きながらだ。最後の一圓は豪遊している最中だった。どうだ、三人が三人共、ずいぶんと良い気持のとき死んでいる。変だと言やあ、これが一番変だ」     四 「……しかし、僕は納得がいかないんだ」  と、進介が言った。 「人生って、そんなものだわ。筋のよく判らない芝居を見ているみたい。物事の辻褄《つじつま》が合わないうちに、どんどん時間が経ってしまうのよ」  佐織はペンシルストライプのワイシャツにコットンのセーターを無造作に着て、どことなく少年ぽい爽やかさが感じられる。 「だから生きて行かれるのよ。毎日毎日、帳尻を合わせなければいけないとすれば、誰でもたまらないわ」 「それはそうかも知れない」 「あなたのボスも、事件は終ったと考えているんでしょう」 「あの人はいつも自分中心だからね。これ以上、働く気がしなくなっただけ。今頃は三浦の連中と一杯やっているよ」 「三浦の警察の人達とは知り合いなの?」 「そうじゃない。今日、初めて会ったんだけれど、あの人は変に人に取り入るのがうまくてね。ただの酒を飲むのが得意なんだ。今日も、その術を使ったんだ」 「それで、あなただけが三浦から帰されたわけ?」 「うん」  佐織はくすりと笑った。 「そういえば、あの海方という人、どことなく可愛らしいところがあるわ」 「……僕はそうは思えない。あの、背中に苔が生えたような図図しさに付いて行けないね。それに経験と勘だけの考え方がどうかと思う。今度の事件でも、海方さんは筒見順がなぜ六山代造を殺したのか全く気にしていない。また、一圓がアジトの金を盗むために筒見を殺したと言うんだが、とても納得のできる説じゃない」 「……それはわたしも同感だわ」 「だから、筒見順のことをもっとよく知りたいんだ。君は筒見の死を予感していたようだね」  永代通りにある〈セブンホテル〉。こぢんまりとしたホテルのレストラン。堀の水にビルの照明が落ち、霊岸橋にヘッドライトが往き来する。  天井からのダウンライトが、料理と佐織の両手を明るく照らしている。佐織に視線を移すと、仄《ほの》暗い半面に物悲しさが感じられる。 「式子内親王の歌を詠んでくれと頼まれたとき、何となく判ったの。切羽詰まった調子だったから」 「他には?」 「筒見さんの願いは、今迄歩いて来た道に別れを告げることでした。どんなに苦しい生活でも、いつも人を疑って日を送るより、その方がどれほどいいか判らないと言っていました」 「僕だって人を疑う点じゃ似ている」 「違うわよ。絶対に。似ても似つかないわ。たとえば……今、小湊さんはわたしを疑っている?」 「……いや」 「そうでしょう。筒見さんは最初、看護婦のわたしだって信用しなかったわ。そんな状態に精神が堪えられなくなっていたのね。でも、その道から抜け切ることは、覚悟していたよりずっと難しいことだったんです。薬の中毒からは抜け出すことができても」 「組から足を洗うことはできなかったんだ」 「結局、筒見さんは気の小さな人だったのよ」 「そうかも知れない」 「でも、最後の手段は残っていた。それは自分が死んでしまうこと。二年前、筒見さんが血塗れで運び込まれたとき、それに気付いたの。筒見さんは死んでしまいたくて我武者羅《がむしやら》な争闘に加わったんだ、と」 「捨て身になると、反対に相手は怯《ひる》むだろうな」 「皮肉ね」 「そうしたことがあって、君は筒見の死を予感していた」 「ええ。ぼんやりとね。勿論、直接そう打ち明けられたわけじゃないけれど」 「筒見は最後迄、君にも本心を言わなかったね」 「それが残念なの。なぜ、それを言ってくれなかったのか」 「葉隠れの身だったからだろうな。君に断わられたらもっと惨めだ。もっとも、君の方じゃ、筒見と新しい道を一緒に歩き出す気構えはできていたようだけれど」 「ええ。もし、筒見さんの一言《ひとこと》があったらね」 「……君も、筒見が好きだったのかね」 「ちょっと違う。正直に言うと、わたしも葉隠れの身だったから」  進介はびっくりして佐織を見た。オレンジ色の照明を受けた半面にも淋しさが拡がっている。  佐織は暗紫色のワインを干すと静かに口を開いた。 「のこりなく、有明けの月の、もる影に、ほのぼの落つる、葉隠れの花……」 「すると?」 「あら、鈍感な刑事さんですこと。気が付かなかったの?」 「……全然。一体、誰と?」 「そんな自慢にもならないことをわたしの口から言えというの。大体、わたしが看護婦から院長の秘書になった、というのでぴんと来そうなものだわ」  佐織は空になったワイングラスに指を当てた。進介がそれに酒を満たすと、佐織は静かに口へ運ぶ。 「筒見はそれを知っていた?」 「知らなかったわ。わたしも黙っていた。わたしは卑怯だった」 「院長に奥さんは?」 「います。それを知っているのに、と言われそうだけれど、昨年の春、院長は一人息子を交通事故でなくしてから、奥さんとの仲がしっくりしなくなっているんです」 「奥さんは君のことを知っているかね」 「それどころじゃないんですよ。奥さんはそのショックで体調を悪くして、入院退院を繰り返しているんです。精神的なことが原因になっているというんですが、ときには何日も目が離せない状態が続くので、その度にわたしがお手伝いに行くんです」  それが重なるうち、勝畑院長は佐織が手放せなくなったのだろうか。 「……そのうち、君が院長夫人かな」 「それは、ありません」 「どうして?」 「院長から、そう言い渡されています。あの人は体面を重んじる人ですから、わたしみたいな立場の女を正妻になんかしないわ」 「それで、君はいいの?」 「だって、仕方がないでしょう」 「院長を愛しているのかい」 「……愛とはちょっと違うわ。でも、求められたとき、断わり切れなかった」 「同情かな」 「……そう言えそうね」 「だったら、筒見に対する君の心も同情だろう」 「ええ」 「しかし、筒見は背中に他人の戒名を彫っている男だしな」 「違うわ。わたしはそんなことじゃ困りはしないわ。わたしは困らなくても、筒見さんはわたしを求めようとはしなかったでしょう。筒見さんは戒名を入れたときから、結婚して家庭を作るという生活を捨てたんです」 「自分が殺した相手への心中立てだな。自分が殺した者に対して、自分だけ幸せでは気が済まなかったんだ。それにしても筒見は義理固い。死んだとき、筒見の背中には二つの名が増えていたよ」 「…………」 「一つは、俗名六山代造。競馬場で筒見が殺した男の名だ。筒見は六山を殺したその足で彫物師のところに行ったらしい。さっき、彫物師を調べた係がそう報告して来た」 「もう一つの名は?」 「臆病蕩児。これはどうも自分の意味らしい。結局、筒見は自分の死を覚悟していたようだ」 「臆病蕩児……」  佐織はじっとテーブルの上の絵皿を見詰めていたが、ふと、顔を上げた。何かを決意したような表情だった。 「ねえ、ちょっといたずらしていいかしら」 「……どんないたずらだね」 「注射をするときのように、腕捲《うでまく》りしてみて……」 「本当に注射をするんじゃないだろうね」 「大丈夫、真似事ですから」  進介は上着を脱ぎ、ワイシャツの袖を捲った。  佐織はバッグを引き寄せ、万年筆を取り出した。佐織の指が進介の二の腕を持ち、ペンの先を押し当てた。痛痒さが続いたが、進介は我慢することにした。しばらくすると、臆病蕩児という文字が肌の上に書かれた。インクが乾くと、青黒い彫物の色そのものになった。 「これで、何をするんだね」  佐織は今にも泣き出すのではないかと思うほど、真剣な表情で言った。 「最初に、このホテルの部屋を取って来て下さい」  佐織は厳粛な表情で衣服を取り去り、ベッドに入って目を閉じた。進介もそれに従い、静かに佐織の横に入る。鎮魂の儀式には言葉は必要でなく、余計な身動きも慎まなければならない。二の腕にはまだ感覚が残っている。進介はその疼《うず》きにも気を置きながら、一つになった。  式ではあったが情は動く。佐織は最初から瞼を閉じていたが、そのうち眦《まなじり》に涙が光るのが見えた。唇は血の色を増して厚く反《そ》り、ためらいがちに熱い息を吐く。   四章 故殺の規定     一  海方が特犯の部屋に出勤して来て、一つげっぷをすると部屋中が韮《にら》臭くなった。 「おう、やってるな」  海方は報告書を作っている進介の傍にふらふらと近寄り、どたりと椅子に坐った。身体が韮臭い上に酒臭く汗臭く油臭い。見ると海方の目は赤く濁り無精髭《ぶしようひげ》が伸びていて口を開くと歯に物が挟《はさ》まっている。顔も洗わずにやって来たようだ。 「昨夕は三浦ですっかりごちになっての。明け方迄|飲《や》っていた」  海方はよれよれの煙草を取り出した。部屋の空気をこれ以上悪くする気らしい。だが、海方をあまり悪くは言えない。進介も昨夜、佐織とのことで頭が一杯になっていて、仕事が碌《ろく》に進んでいないからだ。  海方は少しの間、進介の手元を見ていたが、 「こりゃ、駄目だ。字がお星様に見えるわ」  と言って、よたよたと部屋を出て行った。  海方がいなくなると、三河特犯課長が進介に声を掛けた。 「小湊君。昨夜、亀さんと一緒じゃなかったんですか」 「……ええ。事件は一段落したから、君はもういいよと言われました」 「……そうなんだ。亀さんは君を帰して、自分だけが二人分のご馳走になる了簡《りようけん》だったんですよ」 「そうなんですか」 「ですから、そんなとき君が付いていてくれないと困るんだ。あの様子じゃきっと先方さんに迷惑を掛けているに違いないんです」 「……今度から、そうします」 「報告書の方は誰かに任せましょう。小湊君はご苦労でも亀さんから目を放さないように。ただし、あの呼吸だけは覚えない方がいいですよ」  三河は声を低くした。 「亀さんだって君ぐらいの年にはああじゃなかったと思う。くれぐれも、折角のあなたの若い心臓に苔を生やさないように」 「判りました」 「今、亀さんを見たところ、かなり辛そうだったじゃありませんか。休暇を取ったらどうです。こう亀さんに言ってやって下さい」 「どこへ行ったんでしょう」 「こんなときは、大抵、食堂にいます」  進介は仕方なく仕事を中断して食堂に向かった。食堂の入口で、白衣の料理人と顔を合わせた。料理人は大きなポリバケツを運び出そうとしているところだった。 「あんた、亀さんの部屋の人ね?」 「そうです」 「ちょうどよかった。あの人を何とかして下さいよ」 「海方さん、来ているんですね」 「そう。今、料理長を威《おど》して酒を飲んでいます」 「……二日酔いなんですよ。迎え酒で治すつもりでしょう」 「それはいいんだが、仕事にならないんだよ。昼は刺身定食でね。刺身は臭いを吸うからね。あの臭いじゃ、冷蔵庫からものを出すこともできません」 「判りました。すぐ連れ出します」  進介が食堂に入ると、海方は一人窓際を占領して韮の臭いをまき散らしながらコップ酒を飲んでいた。進介に気付き、とろとろとした目を向けて、大きなげっぷを出す。 「おう、来たか。君も一杯|飲《や》るか?」 「いえ、僕は飲みません」 「じゃ、何で来た」 「心配で、見に来ました」 「ははあ。課長に言われたな。亀さんを休ませて家に戻せ。そうだろ」 「そうじゃありません。課長は休暇を取ったらどうかと言っています」 「その手は食わねえ」 「は?」 「二日酔いや病気は出勤しながら治すもんだ。元気なときだからこそ、休暇を取って遊べる。どうだ」 「なるほど」 「よしか。この呼吸を覚えておくんだ。何しろ、安い給金だからな」 「それはいいんですが、早くここを出ましょう。料理人が仕事にならないそうです」 「そうか。いや、他人に迷惑を掛けてはいけねえ」  海方は一息に酒を飲み干すと椅子から立ってコップを調理場のカウンターに置いた。 「有難《ありがと》よ。お陰で大分、楽んなった」  料理長は見向きもせず、下働きの若い男にコップを指差し、 「煮沸」  とだけ、言った。  食堂を出てエレベーターへ。たまたま同乗した婦人警官が急に顔色を変え、胸を押えて次の階で降りて行った。  特犯の部屋に戻ると、三河課長は自分のデスクの囲りに殺虫剤のスプレーを掛けているところだった。婦人警官のときは何も言わなかった海方も、それを見て相当気分を害したようで、三河の前に立ってぬうと海亀頭を突き出し、 「お心遣いは忝《かたじけ》のうございますが、私めはお国のために働かなければなりませぬ。それに、断っておきますが、昨夜私は大蒜《にんにく》の粕漬けは大量に食しましたが、酒は一滴も飲みませんでした」  と、平気で嘘を吐いた。  三河課長は遺憾の表情になったが、渋渋《しぶしぶ》、 「では、ごゆっくり」  と、変な挨拶をした。それを聞くと海方は大威張りで自分の机に向かったが、すぐ部屋の中がたまらなくなった。海方は腸に溜まった大量のガスを、静かに放出した様子だった。  三河課長が咳込んで立ち上がったとき電話が鳴った。進介が受話器を取った。新しい事件の発生だった。  港南署からの連絡で、管轄内にあるホテルの部屋で、若い女性の他殺屍体が発見された。女性の身元は不明、昨夜同宿した男の姿が見えないという。  進介が報告すると、三河課長はほっとしたように海方を見た。 「海方さん、お国のためです。お国のため。すぐ、現場へ行ってもらいましょう。小湊君もお願いしますよ」  海方が口を尖らせた。 「しかし——」 「判っていますよ。そんな事件は一課が出動すればいい。特犯の出る幕じゃないと言いたいのでしょう」 「うう——」 「でも、私にはこれが難事件だと、ぴんと来ているんです。難事件でなければ結構ですが、そのときは海方さんが朝飯前で解決するわけです。港南署も喜ぶでしょう」  海方を見ると、変に力んでいる。どうやら最後のものを置土産にしようとしているらしい。     二 「身体が火照るでな、窓を開けさせてもらうよ」  と、海方が言った。 「どうぞ。僕は構いません」  海方はハンドルを廻し、ドアの窓を開けて風を入れた。 「どうも、我ながら臭くって敵《かな》わねえ」 「大蒜は好きなんですか」 「なんの、大嫌えだ。でも、折角出されたもんだからな」 「判りました。海方さんは昨夜嫌いなものを沢山食べておけば、近いうちに好きなものに巡り会う機会が多くなる、そう思ったんでしょう」 「……こりゃ参ったな。段段、俺の手の内が見えてくるようだ。正しく、図星さ」 「奥さんに叱られませんか」 「なんの。あの女は俺が銭を出したんじゃなきゃ、河豚《ふぐ》に当たっても驚かねえ」 「まだ顔色が勝《すぐ》れませんね」 「そうだろう。迎え大蒜でも齧《かじ》りゃよかったかな。まあいい、しばし侘寝《わびね》と洒落《しやれ》るからの。目が覚めねえようだったら、そっとしておいてくれ」 「判っています」 「それから、港南署だというと、安藤という捜査主任が来ているかも知れねえ。頭の禿げた男だ。もしいたら、俺がよろしく言っていたとな」 「現場を見なくて、いいんですか」 「なに、大丈夫だ。俺が現場をうろうろするより、脳を休ませておく方が、ずっとお国のためになるんだ」  海方はそう言うと、古い洗濯機のようないびきをかき始めた。  品川港南にある「ホテル富士見」。  五階建てで薄茶の化粧レンガ。派手に飾り立てているわけではないが、どことなく贅沢《ぜいたく》な感じのホテルだった。看板も控え目で、進介は最初見過してしまった。  海方は起きそうもない。裏手の駐車場には何台もの警察の車が置かれている。進介は海方を車に残してホテルに入った。  制服の巡査が何人も派出されている。現場を訊くと、エレベーターで五階だった。  五階は先着の一課の捜査官や、所轄署の捜査官が詰め掛けている。進介は顔見知りの一課の秋月裕を見付け、安藤という捜査主任がどこにいるか尋ねた。 「安藤なら、俺だ」  安藤捜査主任はすぐ傍にいた。禿げというほどではない。多少額が広い、海方と同年輩の男だった。 「特犯が来るというんで待ってた。亀さんが見えないが非番なのかね?」 「いえ、そうじゃありません」 「とすると、相変らず怠けているわけですね」 「下まで、来たことは来たんです」 「また、二日酔いだな」 「今日は、大蒜酔いも手伝っているようです」 「なるほど、それで亀さんが来るという理由が判った。部屋から厄払いされたんだな。まあ、いいや。小湊君だったね。亀さんのお守《も》りは大変だろう。今、被害者の特徴など、とりあえず港南署に第一報を入れ、各署に連絡してくれるよう手配したところだ。まあ、現場を案内しよう。こっちだ」  現場のドアが大きく開けられている。  部屋の電灯が全部つけられ、係官がそれぞれの仕事に没頭していた。入口からざっと見渡すと、ゆったりとした黒タイルの浴室に、続く洗面所が見える。部屋は二間続きだ。玄関のすぐが四畳半の和室、その奥が正面にベランダのある洋室。ベッドは二つ、大きな鏡台やライティングデスク、テレビなどがゆったりと配置されている。 「ホテルのチェックアウトは十時だそうでね。時間になってもこの五〇三号室だけが何も言って来ない。それで係が電話を掛けたそうですが誰も出ない」  と、安藤主任が説明する。 「それで、責任者がキイでドアを開けると、ベッドの上に女性の屍体があった。このままの状態でです。拝んでやって下さい」  窓際の方のベッドだった。ちょっと見ただけでは、若い女性が行儀よく寝ている姿だった。髮の乱れもなく、毛布をきちんと顎まで掛けている。だが、近付くとその顔に鬱血《うつけつ》が見える。顔立ちは整っている。生きているときは知性的な美人だったに違いない。  屍体の撮影が始まった。進介は隣のベッドを見た。枕と毛布がきちんと揃えられていて、使用した形跡はない。 「被害者は昨夕五時半頃、連れの若い男とホテルに来たそうだ。宿泊者カードには男が署名したが、今、調べるとその住所電話番号には該当者が存在しない。恐らく名前も偽名ですね。計画的な犯行だと思う」  と、安藤主任が説明した。海方とは反対にまめで世話好きな男らしい。  そのうちに撮影が終る。傍にいた警察医が注意深く毛布を取り除けた。  被害者は胸の上できちんと腕を組み合わせている。衣服の乱れもない。再び、撮影係のフラッシュが光る。 「相手の男は二十四、五歳。背は百七十五センチ前後、痩せ型で優しそうな顔をした二枚目だ。どこか学生らしい感じがしたと、フロント係は言っている」 「二人は歩いてホテルに来たんですか、それとも?」  一課の秋月が傍に寄って来て訊いた。 「車だそうだ。ゲイトキーパーが駐車場に案内した。男はフロントで、自分だけは仕事が残っているので、夜のうちにホテルを出るからと言って、先に支払いを済ませた」  連れの男が、自分だけ夜のうちにホテルを出ると言っているところを見ると、犯行は計画的だったようだ。 「男は支払いを済ませてキイを受け取り、そのまま女と二人でレストランに入って行った」 「怪しいような素振りは?」  と、進介が訊いた。 「全くなかったと言う。二人は食事を済ませて部屋に行き、女は発見されるまで誰にも見られていない」 「で、男の方は予定通り、夜中にホテルを出たのですね」 「そう。夜勤のフロント係がそれを見ている。夜中の一時前後だった」  警察医は被害者の瞳孔を見、口腔を開けて懐中電灯を当て、指で肌を押す。 「……ざっと、死後半日以上経過していますね。勿論、解剖でもっと精しいことが判りますが」  被害者の喉には一目見て判る指の痕が付いている。 「口紅の色が濃いようですね」  と、初めて気が付いたように安藤主任が言った。警察医はうなずいて、 「そうですね。死後、誰かが塗り直したということも考えられます。ほら、塗り方があまり上手じゃありません」 「その人間が被害者の腕を組ませ、衣服を直した?」 「多分ね。喉をご覧なさい。指の痕が付いているでしょう。両手で扼殺《やくさつ》されたようですね。おや……」  警察医は組み合わされた被害者の両手をほぐしている。すでに硬直が起きているようだ。 「左の手首に傷がありますね。傷口は塞《ふさ》がっていますが、まだ新しいものです」  進介が見ると、白い手首の内側に、赤黒い筋が見えた。縫合されたような痕も残っている。警察医は続けた。 「それに、被害者は左|利《き》きのようですよ。ベルトをご覧なさい。バックルを通したベルトの端は、大抵の人なら向かって右側に出ているでしょう。右利きの人ならその方が締め易いからです。ところが、この女性の場合は逆で、ベルトの端が左側に出ています」  被害者は胸に銀色の刺繍をした白のワンピースに、細い黒の皮ベルトを締めていた。進介はそのベルトの締め方を自分のベルトと比較してみた。確かに、被害者のベルトは進介のとは逆で、もし自分がその形にベルトを締めなければならないとすると、かなり手の操作が難しくなりそうだった。  被害者の身元は不明。犯人は偽名を使い、現場に遺留品を残していない。捜査は難航しそうだったが、十分後、事件は急転直下、解決してしまった。  一本の電話だった。  電話が鳴ったのは、指紋が採取された直後のことだ。指紋係は指紋の状態を見て、誰かが電話を使ったと推定していた。  たまたま傍にいた港南署の捜査係長が、本能的と言ってよい動作で、ハンカチを手に巻いて受話器を取り上げた。右手は備え付けの鉛筆を持った。 「……そうですね、多分、間違いないと思います」  係長は受話器を置くと、部屋にいる全員に聞こえるように声を張った。 「駒沢署からの連絡です。昨夜、捜索願いの出されていた女性が、この被害者に該当するようです」  部屋の中がどよめいた。係長は備え付けのメモを切って読んだ。 「捜索願いの出されている当人は、香野阿由美《こうのあゆみ》、二十二歳。世田谷区西|砧《きぬた》に住んでいます。阿由美の特徴は左手首に比較的新しい傷があります。そうですね?」 「確かに、この被害者にも同じ傷があります」  と、警察医が言った。 「——及び、右耳の下に大きめのほくろ。それと、左犬歯が曲がって前方に傾いています。つまり、八重歯ですね」  警察医はその二点を確認した。係長は続けた。 「阿由美の家族の話によると、阿由美は先月、十八日にも心中未遂を起こしています。その手首の傷がそのときのものです。原因は愛人との結婚を両親から反対されたこと。相手の男は船水栄一郎《ふなみずえいいちろう》、二十三歳。東欧大学文学部の三年生。住まいは目黒の祐天寺です」 「二人の仲は自殺未遂後も続いていたのですか?」  と、安藤主任が訊いた。 「いや、心中以来、香野家では前より厳しく船水との交際を禁じていたそうです。それが、昨日の朝から阿由美が家を明けたまま帰らず、昨夜になって気が付くと、父親が所持していたライフルの猟銃がなくなっていました。そこで、香野家では驚き、再び、船水と心中する危険があるとして警察に届けたのです」 「……銃はここには残されていませんね。船水が持ち去ったのでしょうね」  と、安藤が唸った。 「駒沢署では目黒署に連絡し、係を船水栄一郎のアパートに向かわせたそうです。西尾君、被害者の写真を持って香野家に行ってこれが阿由美かどうか確かめてくれ。黒川君はすぐ駒沢署に行き……」  係長はてきぱき指示して係をそれぞれの場所に向かわせる。  進介もただちに経過を特犯に報告する。と、間もなく、目黒署からの電話で、船水栄一郎の死が知らされて来た。     三  車のドアを開けると、海方は二、三度いびきをつまずかせてから目を開いた。 「おう、もうお仕舞いか」  海方は腕時計を見た。 「随分と仕事が早いようだがの」 「被害者の家族から、捜索願いが出されていたのです。被害者は香野阿由美という女子大生で、犯人は船水栄一郎という大学生でした。さっき、その船水の屍体が発見されました。住んでいるアパートの駐車場で、車の中で死んでいたそうです」 「ほう。自殺か?」 「多分、そうでしょう。二人は前にも心中未遂をしていました」 「なるほどな。それで一件——いや、二件が一度に落着か。今度の事件は、楽でよかったの」  寝ている内に事件が解決では、それ以上楽なことはない。 「ほう、いい匂いがするじゃないか」  海方は鼻をひくひくさせた。駐車場に向いてレストランの料理場の裏窓が開いている。 「もう、十二時を廻った」 「でも、皆、船水のアパートに行きました」 「しかし、あれは、あのボルシチの匂いは、ただごとではない」  進介は否応《いやおう》なく車を発車させた。同僚が働いているというのに、車から一歩も出ずに寝続け、目を覚ますと悠悠と昼食を食べようという了簡が判らない。  肉とソースの匂いがどんどん遠くなる。 「仕方ねえ、もう一寝入りするかの」  海方は不貞腐《ふてくさ》って目を閉じた。     四  目黒川沿いの裏通り。住宅地の一画が警察や報道関係者、野次馬でごった返していた。  進介は現場の駐車場まで車を進めることができない。仕方なく道路際に車を停め、人を分けながら駐車場に急いだ。陽気が緩《ゆる》み、少し歩を早めると汗ばむほどだ。  駐車場は露天、車六台分の仕切りのある狭い敷地だった。両側は木造二階の住宅で、いずれこの土地も整地されて同じような住宅が建てられるといった感じである。駐車場の隅には雑草が茂っていて、現在、三台の乗用車が並んでいる。その真中にあるのがクリーム色のセダンだった。  進介は制服の警察官に身分を言い、駐車場に張り巡らされたロープの中に入った。  ホテル富士見にいた主だった顔触れが揃っている。早速、一課の秋月が海方を見付けて傍に来る。 「本調子じゃないんでしょう。態態《わざわざ》来なくてもよかったんですよ」 「ほう、足手まといかの」 「そうじゃありませんが、大体、落着しました」  海方は港南署の安藤主任を見て、その一群《ひとむ》れの方に首を伸ばした。坊主刈りの初老の男が安藤の質問を受けている。 「……そうです。夜中の二時ごろでしたか、確かに車の音を聞きました」 「昨日の夕方迄、この駐車場には、船水の車はなかったのだね」  と、安藤が訊く。 「そうです。この、船水さんの車の両側の乗用車は土日と祭日のドライブに使われるだけで、いつもはここに置かれたままです。それから、こちらの一列は近くの会社のライトバンで、朝早く駐車場を出て夕刻には戻っています。ライトバンは乗用車と反対に、休日はここに駐車したままです」 「船水はいつからこの車を使っているかね」 「ほら、この人は先月、心中事件を起こしたでしょう。最近、退院して、それからでしたね。船水さんは大層この車が気に入っているようで、車の傍にいるときにはいつもにこにこしていました」 「学生の持ち物にしちゃ、真新しくて贅沢な感じですね」 「……これも、あの女性の親から貰った、と噂です」 「例の、香野阿由美。心中の相手かね」 「ええ、相手の親は手切金のつもりじゃなかったんでしょうかね」 「……心中の後、船水の様子は?」 「しばらく、部屋にじっとしているようでした。何しろ、故郷《くに》からご両親がやって来て、散散意見して帰られた後ですから」 「相手の香野阿由美を知っているかね?」 「お顔は一度も見たことがありませんが、週刊誌で読みました。何でも全日本自動車協会の偉い方の娘さんだそうですね」 「船水が車で出歩くようになったのは?」 「一週間ぐらい前からじゃなかったですか。車を手に入れてからです」 「で、今朝はここにはいつものように六台の車が揃っていたんですね」 「ええ、間違いありません。ラジオ体操に行くとき、前を通りました」 「それで、車の異常に気付いたのは?」 「今日の十一時過ぎでした。あすこの奥さんが——」  男は駐車場の奥を指差した。その住宅もモルタル二階建てで、駐車場に面して台所の出窓が作られている。 「いつになく車の排気ガスの臭いがすると言うんです。今朝は比較的暖かでしょう。台所の窓ガラスが少し開けてあったんですね。それにしてもひどいと言うので、ここに来て見ますと、船水さんの車がエンジンを吹かしていて車の中に人が見えない。おかしいなと思って車の中を覗くと、運転席に人が倒れていました。ええ、船水さんの顔はすっかり変わっていて……」  質問が終るまで、海方は船水の車に近寄って外側を見廻し、ガラス越しに車内を覗き込む。船水はとうに運び出されていて、車の中に今迄屍体が転がっていたとは思えない。  そのうちに集まりが散り、安藤主任が海方の傍に寄った。 「亀さん、お目覚めかね?」  海方はにやっと笑って、安藤の肩を叩いた。 「相変らず、痛いことを言うの」 「特犯にゃ、痛いことを言う人間はいなくなったかね」 「一人だけ。三河課長がときどき態度に出す。ところで、死因は?」 「自殺だね。今のところ外傷は見当らない。毒を飲んだようだ」 「毒は見付かったか?」 「いや、まだだ」 「どんな恰好してた?」 「運転席に坐ったなりに倒れていた。片袖に皮ジャンパーが通っていた」 「ジャンパーの下は?」 「トックリのセーター。厚手の毛糸編みだ」 「ほう、この陽気にセーターへ皮ジャンパーを重ね着するかの」 「ははあ。亀さんは前とちっとも変らないね。まだ旋毛《つむじ》が曲っているな。だが、大丈夫。船水の遺書があった。簡単だが、阿由美を殺し、自分も死ぬ、二人の両親への詫びも書かれていたよ」 「阿由美を殺して、自分も死ぬ。……自分も自殺するじゃねえのか」 「自殺とは書いていなかったな。死ぬだ。死ぬじゃいけないのか」 「いけないとは言わねえが。……阿由美は家からライフル銃を持ち出したようだが」 「それなら、車の中にあった」 「発砲は?」 「うん、最近、発砲したね。銃口が臭っていた」  海方は指を組んで、ぼきっと骨を鳴らした。 「誰を撃ったんだ? 阿由美は扼殺されたんだぜ」 「試し撃ちしたと見るね。最初、船水は阿由美を銃殺しようとした。だが、試し撃ちして銃の衝撃が大きくて怖くなり、予定を変えたんだ」 「ホテル富士見の部屋では、試し撃ちの弾痕など問題になっていなかったはずだ」 「だから、それは別の場所だね」 「……なるほど。試し撃ちか」 「面白くなさそうだな」 「うん、面白くはねえ。先月、二人が自殺未遂したときには、同じ睡眠薬を飲んで、同時に手首を切っていた」 「……船水の手首に、傷があった。そのときのだな」 「今度は違う」 「だからさ、同じ失敗を繰り返したくはなかったのさ」 「なぜ、ホテルを抜け出した。阿由美の傍でなぜ死ななかった」 「おや、亀さん、今日は嫌に理で押して来るね」 「……移ったかな」 「何が?」  海方はちょっと進介の方を見て、にやっとした。 「この節、若え者と付き合うようになってね」 「結構じゃないか。若い者には色色教えられることもあるだろう」 「大いにある」 「だからさ。よくある奴だ。阿由美を殺した後、船水は自分が死ぬのが恐くなってホテルを逃げ出した。だから、死ぬ方法が違ってもそう怪しむことはないと思う」 「船水はどこで薬を手に入れたんだろう」 「それはこれからの捜査だな。一課の秋月君に病院へ一緒に行ってもらった。屍体が解剖されればどんな薬を使ったのか判るはずだ」 「車はこのままの状態だったんだね」 「そう。エンジンだけは止めた」 「窓は?」 「発見されたときと同じ。全部、閉められて内側からロックされていた。ドアも同じだ」 「後ろ座席に丸いクッションが転がっているな」 「ああ」 「万が一ということもある。クッションをビニール袋に入れて、中の空気を調べさせよう」 「……ガスか?」 「ああ」 「しかし、排気ガスは外に出ていたよ。車の中に引き込まれた様子はない」 「だから、万一だと言った」 「まあ、亀さんの言うことだから、一応調べさせるがね。どうしても、この自殺が気に入らないようだね」 「ああ、第一、この車の色が気に入らねえ。この車はクリーム色のセダンだ」  傍で聞いていた進介は心の中で、あっと言った。クリーム色のセダンは死んだ立田一圓の後を追っていた車だった。 「クリーム色のセダンなど、ざらにある車だろう」 「そうか。そう思えば気が楽だの」 「さっきの管理人の話だと、昨夜遅く、香野阿由美の親父が血相を変えて、船水のアパートにやって来た。船水は留守だったが、いたら血の雨が降りそうだったという」 「……俺はもう一度、ホテル富士見に戻る」 「これから、船水の部屋の捜査を始めるところだぜ」 「まあ、ここは君達に委せよう。君がいりゃ、安心だ」 「何か、ホテル富士見に気になることでもあるのか?」 「あるんだ。どうも、あれは、ただごとではねえんだ」 「そりゃ何だ。教えろよ」 「いや、この舌——いや、この目で確かめねえ内はな」  海方は進介の方を向いて片目を閉じた。 「じゃ、小湊君。ホテル富士見の現場に戻ろう」  何と執念深い男だろう。あれからずっと料理場の匂いが頭から離れないのだ。進介は運転席に戻った。 「……どうもまだよく頭が廻らねえ」  海方は窓の外の景色を見ながらつぶやく。 「きっと、何かを見落としているな。いや、何も見ちゃいなかった。寝ていた。矢張り、無精はいけねえ」 「別に難しい現場じゃなかったと思いますがね」 「じゃ、小湊君。もっと精しくそのあらましを話してみや」  どこまでも横着を決め込むつもりらしい。進介が順序よく事実を説明すると、海方はまだ眠そうな顔でふんふん聞いていたが、 「で、部屋の状態はどうだった?」  と、言った。 「現場は少しも荒らされていませんでした。部屋には被害者だけで、遺留品も残されていませんでした」 「すると、最初は被害者の身元も判らなかったのか」 「宿泊者カードの記載も全部でたらめだったようです」 「気に入らねえの。六山代造がそうだった」 「六山代造? あの競馬場で殺された六山ですか?」 「そうだ。最初は六山の身元も判らなかったな」 「でも、あれは全然違う事件でしょう」 「そう、全く違う事件だ。あれは、ちょんちょん、千秋楽だった」  そのうちに、海方の腹がごろごろ鳴り出した。 「どうもいけねえ。天罰だ」 「でも、海方さんは本当はボルシチの匂いに引かれて戻る気になったんでしょう」 「君も、段段痛いことを言うようになったの」 「お腹がそう言っています」 「まあ、腹のことはものを入れてやればそれで済む。香野阿由美はどんな工合だった?」  進介は一通り被害者の状態を説明した。被害者の左手首に傷があり、被害者が左利きらしいと言ったとき、海方は指の骨をぼきっと鳴らした。 「左利きだと?」 「警察医が、そう言っていました」 「仏さんはまだ部屋にいるか?」 「いえ、とっくに運び出されましたよ」  海方は舌打ちをした。 「どいつもこいつも、お国の為にならねえ頭をしているの」 「何か、手落ちでもありましたか」 「大ありだ。被害者が締めていたベルトの銘柄はどこだった?」 「……さあ」 「服は?」 「……うう」 「まあ、そんなことは安藤が承知だろうが、ちょっと、見や」  ちょうど、車がホテル富士見の駐車場に戻ったところだった。  海方は車から出ると、あっという間にズボンのベルトを外してしまった。便所まで保《も》たなくなったのかなと思うとそうでもない。ベルトを進介に渡した。進介はバックルを見た。 「花柳《はなやぎ》——としてありますね」 「それは縁日で買った安物だ。銘柄なんざどうでもいい。それを、もう一度俺のズボンに通して見や」  海方の腹の中身を想像すると吐気がしそうだが、進介は仕方なく車から出て太い腹にベルトを廻した。 「見ねえ、君はベルトをあべこべに締めたじゃねえか」 「……僕は左利きじゃありませんよ」 「左利きじゃなくとも、相手のベルトを締めようとすると、自然にベルトは逆になるものだ」  進介は海方の横に並び、自分のベルトと較べて、あっと言った。 「納得したかね?」 「すると、被害者は左利きではなく、他人が締めた?」 「ということさ。となると、被害者の左手首にあったという傷。それも、自分が右手で持った刃物で切った、とも考えられる」 「……被害者が前に心中未遂をしたときのことですか?」 「それよりも、差し当たって、被害者がベルトを締めたことが問題だな」 「ベルトを締めたのは、犯人ですね」 「そうだ」 「なぜベルトを締めたんでしょう」 「犯人は女を殺してから、着物を着せたのさ。髪を直し、口紅まで引いてやったんだ」 「死者が羞《はずか》しくないようにですか」 「そう、すると、被害者が殺されたときの姿が想像できるな?」 「被害者は、裸だった」 「もっと妄想を逞《たくまし》くしろ」 「もっと、というと……」 「つまり、女は狂雲驟雨《きよううんしゆうう》の歓《かん》の最中《さなか》、殺された。判るか?」 「……何となく」 「とすると、一昨日、殺された六山代造は、競馬で大穴を当てた直後だった。筒見順は好きな女の声を聞きながら。立田一圓は豪遊の最中——」  進介はびっくりして海方を見た。酒と大蒜漬けになった頭が、何かとんでもないことを考えているようだ。 「じゃ、この三日間に判った事件は、どれも関連があると言うんですか?」 「関連とは言わねえ。同じ臭いがするような気がしての」 「前の事件は、一圓の死で全てが済んでいるじゃありませんか」 「そうだ。今度の事件でも、阿由美を殺した船水が死んで、それでお仕舞いちょんちょんだ」 「そうです。安藤主任もそう言っていました」 「安藤は考えに深みのないところがあっての。それが欠点だ」  でも寝てはいませんでしたと言おうとしたが口には出さなかった。結局、この男は天邪鬼《あまのじやく》なのだ。進介が一圓が筒見を殺した動機が判らないと言ったとき、海方は、いや判らなくてもよい、これでお仕舞いだと言った。今度、誰の目にも阿由美と船水の死が心中で、事件が終っているにもかかわらず難を探そうとする。 「三つの鎖がある」  と、海方は右手の指を三本立てた。 「鎖……なんのことですか?」 「最初、六山代造が筒見順に殺された。筒見は立田一圓に殺され、一圓は奇禍に遭って死んでしまった。これが、三つつながった鎖だ」  次に、海方は左手の指を二本立てた。 「こっちには、二つの鎖がある」 「……香野阿由美が船水栄一郎に殺され、その船水は自殺した、というんですね?」 「そう、だが、考えて見や。たとえば、一圓と阿由美とをつなげると、ここに、五つの長い鎖が出来上がる……」  海方は静かに両手の指を近寄せ、五本の指を並べて見せた。 「そ、そんなばかな……」 「だったら、悪夢だがの。無論、そんなことはねえが、妙な臭いが鼻に付いてならねえんだ」 「でも、海方さんはあのときもうこれでお仕舞いだ、千秋楽だと」 「そう、言った。しかし、今からでは遅蒔きか。いや、そうでもあるまい」  海方はホテルに向かって歩き出した。現場にはまだ捜査官が仕事をしているはずだが、海方は真っすぐにフロントへ行く。  ホテルの支配人は警察の調べには温厚な態度で応じていたのだが、海方に呼び出されると、初めから当惑した表情を表わした。 「先程、知っていることは全部お話ししましたよ。何しろ、あのお客様は顔も碌《ろく》に覚えてございませんので」 「そこなのですよ。このホテルは落着いて良い感じだの」  支配人はにこりともしない。海方は動ずる気配も見せない。煙草に火を付けながらゆっくりとロビーにある絵を眺める。 「……ほう、ここでフェルナンレジェが見られるとは思いませんでしたな。敷物はジャガーピアジェ、シャンデリアはゾロタスですかな」  支配人はおやというような顔をした。 「シャンゼリゼ界隈だとアベニューじゃない。リュドバサノあたりにこういう感じのホテルがありましたな。おや、あのテーブルと椅子はギマールじゃありませんか」 「とんでもございません、擬《まが》いでございますよ」  支配人は海方の横にそっと灰皿を差し出した。 「内《うち》あたりではとてもギマールの家具など揃えるわけには……」  海方は鷹揚《おうよう》に灰皿へ煙草の灰を落とす。 「いや、あたりの趣味がシックですから本物に見えますよ。こういうホテルでは若い者は少ないでしょう」 「はい。どちらかというとご年配のお方が気に入って下さいます」 「それがよろしいですよ。若者相手じゃいけません。お金や物の価値が判りませんからな」 「いえ、若いお方は若いお方なりの——」 「結構。若者でも中にはセンスの良い人達もいる。で、例の二人連れですが、予約の客だったのですかな」 「……はあ。昨日の午後三時過ぎ、お電話がございました」 「なるほど。こういう目立たない造りですから、通りすがりのふりの客じゃないとは思いました」 「でも、初めて拝見するお顔でした」 「誰やらの紹介とか?」 「さあ、それはよく判りません。真逆《まさか》、こういうことになろうとは……」 「いや、ごもっとも。商売の患い。悪い後は良いとも言います。その二人が乗っていた車を覚えておいでかの?」 「さあ。ゲイトキーパーが……」 「夜勤でしたら、自宅の電話番号を教えていただきたい」  支配人はすぐ電話帳を繰り、自分でダイヤルして相手を呼び出し、事情を説明してから海方に受話器を渡した。五分前とは掌を返したような扱いだ。  海方は受話器を受け取って、昨日の客の車の形を訊いた。相手は思い出そうとしているのだろう。しばらく海方は無言だったが、やがてふんふんと二、三度うなずくと電話を切った。 「や、支配人。大変に参考になりました。事件はほどなく解決します」 「それはよろしゅうございました。わたくし共の方でも助かります。お客様ですのでまるで他人とは思えません。長引けば何かと気掛かりで」 「最後に、レストランのシェフと話がしたいんだがな」 「かしこまりました。ご案内しましょう」  調理場の出入口に姿を現した料理長は、丸い鼻をひくひくさせてから、苦り切った顔になった。だが、ここでも海方は不思議な術を使い始める。 「……これは、これは。新鮮なエストラゴンを使っておりますな。いや、香りで判りますよ。野菜にこれだけ気を配っていれば、料理も結構でないわけはない。さっきも、ボルシチの香りをきいただけで、これはと思ったものです。なに、昨夜はムッシューランバンのシェフだったという人の腕を拝見しましたが、ガーリックの扱いに今一つ難がありましてな……」  という工合。海方がフランス語混じりの言葉を言う度に料理長の顔が緩み、終《しま》いには二人を客席に案内して冷えたワインを抱えて来る始末だ。 「……そういうときには地中海風のグルエルをお勧めしますよ。貝のエキスが体毒を綺麗にしますので、すぐさっぱりした気分になります」 「それは有難い。おや、このワイングラスはサンルイでしょう。サンルイも美事だが、これを使い切るあなたも偉い」  後になって、進介は海方に「その気になれば相手がどんな人でもすぐ仲良しになれるでしょう」と質問した。海方は少し考えていたが「一人だけどうにもならなかった人間がいた」と答えた。「それは誰ですか」と訊くと「女房だった」と、言った。 「ところで、シェフ。あなたは例の二人連れを見ましたかな?」  料理長はうなずいて、 「見ましたよ。ちょうど調理場からよく見える席でしたからね。いい女でした」 「もしかして、その女は左利きじゃありませんでしたかね」 「左利き?」 「ナイフとフォークを逆に使っていたとか」 「違いますね。ちゃんと正確に持っていました。そう。相手の男の煙草に火を付けてやっていましたっけ。そのときも普通でした」 「男の方は?」 「男ねえ……いや、男の方もぎっちょじゃありませんでした」 「その二人はかなりいい料理を注文したが、食欲はあまりなかった」 「よくお判りで」 「すぐ後であんなことになった。もりもり食う方がおかしい。料理を残したのは、勿論、シェフの責任じゃない」 「結局、二人共死ぬ気だったんでしょうかね。心中の為損《しそこな》いで、男の方は怖くなって逃げてしまった」 「まあ、その相手も死んでしまったから何とも言えませんがね」 「昨夕は女に逃げられた男もいました」 「ほう……」 「こっちの方は好かねえ爺《じじ》いで、毎週、若い女とここで落ち合うんですがね。昨夕は美事すっぽかされてましたよ」 「大分、虫が好かないようですな」 「好きませんね。あの爺いは消毒の臭いがするんです。私は臭いに敏感でしてね。つい、料理が心配になるんです。きっと、医者でしょうがね」 「医者ね……」  海方はグルエルを旨そうに食べる手を休めなかったが、鼻の先の動くのが判った。 「シェフが嫌いな顔というと、まず、馬面かな」 「そう、長い顔ですね」 「服は……グレイ」 「さすが、刑事さん。いい勘してるね」 「相手の若い女は……看護婦かな」 「でしょうね。いい身体付きで、頭の良さそうな顔をしていました」 「なるほど、嫌な爺いだの」 「表面は糞真面目そうな面をしていますがね。あんなのに限って変態でしつっこくって……」  海方は最後にグルエルの皿を舐《な》めるようにしてスプーンを置いた。 「ああ旨かった。トレビアンだ」 「そうでしょう。待ってて下さい。ブランデーを持って来ましょう」  料理長がいなくなるのを待ち兼ねて進介が訊いた。 「真逆、勝畑院長じゃ?」 「真逆だと、これも悪夢だがの」 「すぐ、電話をしましょう」 「まあ、待ちや。下手に騒げば相手が警戒するだけだ。君も食事中に立っちゃシェフに悪かろう」  進介の前にはまだサーロインステーキが残っていた。進介はあわてて料理を片付ける。海方は運ばれたブランデーを満足そうに飲み、緩《ゆつく》りと煙草に火をつける。 「さっき、支配人に事件はほどなく解決しますと言いましたね」 「ああ、言った」 「じゃ、香野阿由美と船水栄一郎の心中事件はまだ解決していない、と言うんですか?」 「そうさな。ただの心中だとすると、二人が銃を持って三浦へ行った理由が判らねえ」 「二人は、三浦へ行った、ですって?」  海方は煙草の火が爪の先に来るまで消そうとはしなかった。 「さっき、ホテルのゲイトキーパーから聞いてしまった」 「何を言ったんですか?」  海方は進介を見て、ブランデーグラスを指差した。飲んで落ち着けという意味だろう。 「ホテルのゲイトキーパーがこう言った。何気なく車の中を覗くと、フロントに三浦半島の地図が放り出してあった、とね」  進介はブランデーに噎《む》せそうになり、すぐ腰を浮かせた。 「そ、そんな大切なことを、本部に連絡しなくていいんですか」 「こんなとき、あわてちゃいけねえ。あわてなかったから、シェフの話が聞けた」 「そりゃ、……そうです」 「なるほどグルエルが効いてきた。気分が良くなったから、ぽつぽつ出掛けべいか」  海方は重い腰を上げ、レジで煙草を三つポケットに入れ、一緒に勘定を払い、領収書を受け取った。そのまま、フロントへ。 「勝畑という男を知っているかね」  支配人の表情が少し固くなった。 「それは、お客様で?」 「そうだ。勝畑病院の院長、勝畑幸一」 「それは……」 「気にしなくてもいい。お忍びだろうが、絶対あんたが喋ったとは言わない」 「……それだけ約束していただければ」 「常連だの?」 「ええ、まあ……」 「いつ頃からだね」 「今年の、春あたりからです。毎週、一度ぐらいの割で」 「相手の女はいつも同じかの」 「その点は、お固うございます」 「昨夜は?」 「いらっしゃいました。でも、食事だけでお泊りにはなりませんでした」 「その時刻は?」 「……七時から、八時——いや、八時半ぐらいでしたか」 「勝畑が帰った後、女は?」 「いえ、昨夜に限っていらっしゃいませんでした」  聞いていて進介は呆れ返った。海方が少し動いただけで、事件の見えなかった部分がどんどん明らかにされる。そして、次次と新しい疑問が湧き上がる。一番恐ろしいことは、海方の言う三つの鎖と二つの鎖との間に、何やらもやもやしたものが見えて来た、ということだった。  駐車場に出ると、海方はぼうっと空を見上げた。 「昨夜、勝畑院長を振った乙羽佐織はどこに行ったんだろう」  進介は思い切って打ち明けることにした。 「佐織さんは、昨夜、僕と一緒にいました」  海方はそれを聞くと、しばらく口を丸く開けていた。 「そりゃ、朝までか?」 「そうです。済みません」 「なに、謝ることはねえ。だが、感心だ。よく眠いと言わねえ」 「佐織さんのアリバイなら、僕が保証します。セブンホテルでした」 「その代わり、勝畑のアリバイが怪しくなったの。まあ、いい。それで、次の逢《お》う瀬《せ》はいつだ?」 「別に、約束をしませんでした」 「おかしな男だの。それとも、ただの遊びだったのか」 「いや、僕は本気です。乙羽さんだって、そんな浮付いた気持じゃありません」 「だったら、何で約束しなかった」 「しかし、僕の仕事は約束しても、いつ何が起こるか判らないでしょう」 「若いのに義理堅えの。じゃ、今夜、逢うんだ。よしか。逢って、勝畑が昨夜……いや、この数日何をしていたか訊き出すんだ。勝畑が気付かぬようにだ。これもお国のためだ」     五 「今夜、都合が付いた。逢ってくれるね?」 「だめ……」  佐織は消え入るような声で言った。進介は耳を澄ました。だが、かすかな受話器のざわつきが聞こえて来るだけだ。 「そこに、院長がいるのか?」 「いいえ……折返し、連絡いたします」  佐織は切口上に答えた。 「じゃ、待っている。ここはホテル富士見、ロビーにいる」  佐織は返事もせずに電話を切った。  五分ばかりしてフロントに電話が入り、支配人が進介の名を呼んだ。佐織は息を弾ませていた。電話の音質が変っている。 「さっきはご免なさい。院長はいなかったけれど、柳矢さんが部屋にいたの」 「今夜、いいね」 「それが、堪忍して……」 「どうして?」 「どうしても」 「院長と逢うのか?」  佐織の声が途切れた。少したつと、訴えるように話し掛けてきた。 「昨夜、わたしがどんな気持でそのことを告白したのか、考えていなかったのね?」  今度は進介が言葉を失った。 「それなら、それでいいんです。おっしゃる通り、今夜は院長と約束がありますから、あなたとはお逢いできません」 「ちょっと待ってくれ……言い方が悪かったら謝る。とにかく、個人的な話じゃないんだ。事件が絡んでいるんだ。わずかな時間でいい。都合してくれないか」 「……判ったわ。じゃ、あなたのところへ行きましょう」 「待っている。受付で特犯の小湊と言って呼び出してくれ。このことは院長には内証だ」  進介が受話器を置くと、傍にいた海方が言った。 「最後には謝っていたようですね。それはいいとして、野暮な場所で待ち合わせたものですな。まあ、夕方迄、多少時間がありますから、床屋にでも行って良い男になっていらっしゃい」  そうもしていられない。海方と一緒に特犯の部屋に帰ると、海方は早速何枚かの伝票を切り、レストランの領収書と一緒にして、三河課長の前に差し出した。  三河は何度か伝票と海方の顔とを見較べ、最後に、伝票へ花の形に判を押した。海方はそれを持って会計へ行き、現金に替えて来ると、何枚かの紙幣を進介に渡した。 「何ですか、これは?」 「今夜の軍資金です。タクシー、食事、ホテル代。あまりみっともない使い方をしないように。ただし、領収書は忘れずに」  海方は残りの紙幣は自分のポケットに入れた。  佐織が受付に来たのは意外に早く五時少し過ぎだった。  進介は佐織を連れて外に出て、タクシーを止めると否応《いやおう》なく佐織を乗せ原宿にある料理屋の名を言った。全て、海方に教えられた通りだった。 「ずいぶん、強引なのね」  と、佐織が固い表情で言った。進介は海方に教えられた台詞《せりふ》を思い出した。 「しかし、これは人命に関する問題なんだ。協力してもらわないと困る」 「協力はしているわ。今も、院長に頭痛だと嘘を吐《つ》いて来ました」 「わがままを言って、済まなかった」 「それにしても、どうして警察はわたしと院長を尾《つ》け廻すの」 「尾《つ》け廻す?」 「そうじゃない。ホテル富士見を利用しているのを知っているのは、わたしと院長よりいないわ」 「……そりゃ、違う。僕が訊きたいのは、そこなんだ」  進介は誤解を解こうと早口になった。 「昨夜、ホテル富士見で心中事件が起こったんだ。船水栄一郎と香野阿由美という二人で——」 「待って、今、何と言った?」  進介はその名を繰り返した。 「わたし、その人達を知っている」 「何だって?」 「一人だけじゃなく、二人共知っているから確かだわ。その人達、先月、内の病院にいました」 「えっ?」 「病院の近くで心中し、外科に運び込まれたんです」 「そ、それで例のD号室に?」 「ええ、そうです」  進介は頭に血が上《のぼ》るのを感じたが、強いて落着こうとした。いつもあわてることはないと言う、海方の言葉を思い出したからだ。 「じゃ、なぜ船水はホテル富士見を知っていたんだろう」 「それは……船水さんじゃなくて、阿由美さんの方でしょう。院長は仕事でホテル富士見の部屋を借りることがあります。最近、香野さんのお父さんと、今度のことで会っています。きっとそのお父さんから阿由美さんの耳に入り——」  これ以上は落着けない。進介は運転席に身を乗り出し、大声をあげた。 「運転手さん、済まない。元の場所に戻って下さい」  海方の言う三つの鎖と二つの鎖とが音を立ててつなぎ合わされたのだ。   五章 定員は六名     一  競馬場で六山代造を殺した犯人、筒見順は丁金組のアジトで立田一圓に殺され、その一圓は三浦海岸で奇禍に遭って死んだ。  一方、ホテル富士見では香野阿由美の屍体が発見され、その犯人、船水栄一郎は自分の車の中で死んだ。  この二組の連続殺人事件は今、一連のものだと断定された。死んだ五人の内、四人迄が勝畑病院の外科D号室に、同じ時期入院していたことが判ったからだった。  特犯の進介は、勝畑院長の秘書、乙羽佐織の口からそれを知ると、ただちに海方部長刑事にそのことを告げた。  もし、そうなら悪夢だと言った海方の予感が当たったのだ。 「何だと? すぐ、病院へ電話だ。いや。待て、直接行ってみる」  海方は珍らしく混乱した口調になった。 「今、横須賀から照会が帰ってきたばかりだ。横須賀の検問に掛かった車の中に、船水栄一郎の車があった、と」 「すると、船水は他殺の可能性も考えなければなりませんね」  と、三河特犯課長が言った。 「そうです」 「船水を殺した犯人がいるとすると、その人間はまた、誰かに殺される?」  海方は無言だった。 「すぐ、刑事部長に報告します。全署を緊急配備につかせましょう。今度だけは亀さんの負けですな。こんな複雑怪奇な事件では特別捜査本部を作らなければなりませんよ。亀さん、すぐ、勝畑病院に行って下さい」  玄関に佐織が待たせてあった。進介は海方と佐織を車に乗せ、すぐ発車させた。 「一体、内の病院に何が起こりましたの?」  佐織は気味悪そうに訊いた。 「何だか判りません。多分、将棋倒しみたいなものでしょうな」  と、海方が呆《とぽ》けた調子で答えた。海方の態度はもういつもの茫洋とした動きに戻っている。 「で、阿由美と船水の二人が病院へ運び込まれたのはいつでしたかな」 「十月十八日、午後十時頃だった、と思います」 「そのとき、D号室には、六山代造、筒見順も入院していた」 「はい」 「ただし、井舞一夫だけは別だった」 「……今、何とおっしゃいました?」 「井舞一夫。普通、いまいというと、今昔の今に井戸の井を書きますが、この人のは違って、井戸の井に、舞踊の舞の字を使います」 「その人の名なら、知っています。珍しいな、と思った記憶がありますから」 「その井舞一夫も同じD号室に入院していたのですか」 「……多分」 「そりゃ、変だの。確か、小湊君が電話で問い合わせたんだが、そんな人は入院していないという返事だった」 「でも、小湊さんは井舞さんとはおっしゃいませんでしたわ。別の名だったでしょう。立田——とか」 「小湊君は、立田一圓と言いましたか」 「そんな名でした」  進介は二人の会話に気を取られて、危く赤信号を見誤るところだった。 「しっかりしろよ。俺は構わねえが、お嬢さんに怪我でもあっちゃならねえ」  と、海方が言った。 「が、しっかりしないのも楽しめる。迷路を見物して歩いているようなものだ。——つまり、小湊君は井舞一夫の芸名の方を問い合わせたわけだ」 「……そうです。つい、立田一圓と言いつけていたので」 「保険証の名に、芸名を書くかね。と、お嬢さんの前で嫌味を言うわけじゃねえが、乙羽さん、その井舞一夫という名に覚えがあるんですね」 「はい」 「じゃ、これで全員が揃った。ここ三日間のうちに死んだ、六山代造、筒見順、立田一圓こと井舞一夫、そして香野阿由美と船水栄一郎の五人は、最近、勝畑病院の外科D号室に入院していたことがあった」 「その部屋に、何が起こったんでしょう?」 「信じられないようなことがあったんですね。ところで、阿由美と船水は手首を切ったようですな」 「ええ。睡眠薬を飲んで手首を切ったんですけれど、発見が早かったので助かりました。ホテルの従業員が、最初から二人の挙動がおかしかったので注意していたようです」 「しかし……心中とは古風だの」 「古風なのは、香野家の人達ですわ」  佐織は抗議の口調になった。 「あの二人は、とうに成人しているんですよ。そして、心中するほど離れられない仲になっているんです。それなのに、二人を宥《ゆる》さなかったんですから」 「ほう、香野家の誰が反対したのかな」 「全員です。香野家には格式張った祖父母がいます。父親は運輸省の偉い役人をした後、今、全日本自動車協会の会長だそうですが、この人が報らせを聞いて駈け付けて来て、そりゃ偉い見幕でした。母親は当時女中付きでお嫁に来たそうです。阿由美さんの兄さんは医学者、妹は名門の女子学園の学生です」 「なるほど。すると、船水の方に疵《きず》があったのかな」 「疵なんかありませんわ。船水さんは誰に聞いても穏やかで立派な青年です」 「下世話に、金のないのが玉に疵と言いますよ」 「そりゃ、香野家ほどじゃないでしょう。でも、それだけの理由で二人を認めない家なんて、考えられますか」 「考えられますな。こんな仕事をしていると、色色な人を知ります。この前などは、平家の末裔《まつえい》だという人がどうしても源氏の子孫との結婚を宥しませんでした」 「まあ、ひどい話」 「まあ、当事者にしてみれば、我慢のできないという事情もあるのでしょう」 「わたしには理解できません」 「結局、香野家では金品を与えたかして、船水に手を引かせたようです」 「それが、今の人のすることでしょうか」 「はて、それでは再び心中を持ち出したのはどっちかの。阿由美か、船水か」 「……阿由美さんだと思います」 「ほう……」 「院長が洩らしたのを聞きました。船水さんは正常な心のようだが、阿由美さんは潜在意識に心中願望のようなものを持っている、と」 「勝畑院長は二人を診たんですね」 「院長は入院患者を必ず診ますわ。阿由美さんは自分の手で手首を切ったそうです」  しばらくすると、車は勝畑病院の玄関に着いた。     二  院長室で勝畑は帰り支度をしているところだった。 「院長、警察の方が、重要なお話があるそうです」  勝畑は無言で、佐織とドアの傍にいる進介と海方を見較べた。そして、卓上電話を取り上げる。 「……柳矢君を私の部屋に」  勝畑は受話器を戻すと、改めて進介の方を見た。 「ま、お入りなさい。あの話なら、もう終ったはずだが」 「事件は新しい進展をしています」  と、進介が言った。  そこへ、白衣の柳矢が部屋に入って来る。入れ違いに一礼して外に出ようとする佐織に、勝畑は初めて声を掛けた。 「後で君に話がある。部屋にいなさい」  そして、デスクの向こうに腰を下ろした。柳矢は快活な足取りだったが、院長の気持を敏感に悟ったようで、すぐ用心深い態度に変わった。 「事件はどう進展しているというのです?」  と、勝畑は迷惑そうに質問した。進介は二日前、勝畑病院に来て、競馬場で殺された六山代造のことを調べてから、立て続けに四人の被害者が出、それがいずれも最近、勝畑病院に入院していた患者だったことを述べた。 「……考えられませんな」  勝畑がぽつりと言った。 「一連の事件に関して、いくつもの証拠があります。最初、私達にも信じられませんでした。しかし、この一連の殺人事件は事実なのです」  と、進介が言った。勝畑は口を塞《と》ざし、うなずきもしない。進介の前にいた柳矢が静かに言った。 「しかし、筒見順を殺したとされる立田一圓は、事故で死んだんじゃありませんか。とすると、全体として一連の殺人事件とは言えないでしょう」  進介は首を振った。 「いえ、現に、一圓は船水栄一郎と香野阿由美の車に追われていたのですよ。その阿由美は猟銃を持っていました。もし、あの事故が起こらなかったら、一圓は阿由美の銃で殺されていたに違いありません」 「じゃ、その阿由美を殺した船水栄一郎はどうなのです。自殺じゃないんですか」 「現在のところ外傷はありませんでした。でも、警察は他殺の説を捨てていません。屍体は病院で解剖されています。今夜中には結論が出るでしょう」 「もし、船水栄一郎が殺されたとすると、その犯人は?」 「そう、理屈として、その人間もここのD号室に入院していた患者だ、という答が出て来るでしょう」  柳矢はそっと勝畑の方を見た。勝畑の表情に一段と苦渋の色が濃くなっている。 「D号室は六人部屋ですね?」  と、進介は勝畑に訊いた。 「そうです」 「阿由美と船水が運び込まれたとき、空《あ》いていたベッドは?」 「その二人で部屋は一杯になりました。空いたベッドはありません」 「すると、先に入院していたのは、六山、筒見、立田の三人。そして、もう一人、入院患者がいたはずですね。確か、尾久《おぐ》フサという名を覚えています」 「ちょっと、失礼……カルテを持って来させましょう」  柳矢はかなり緊張した顔でデスクの上の受話器を取り、看護婦長田中留美子の名を呼んだ。すぐ、留美子がカルテを抱えて院長室のドアを押した。進介は俺の好みだと言った海方の言葉を思い出した。改めて見ると、目鼻立ちが大きく、白衣の下で胸の盛り上がりが意外な艶《なまめ》かしさを感じさせる。 「おっしゃる通りです。尾久フサというお年寄りです」  と、柳矢はカルテを見て言った。 「確か尾久さんが入院したいと言って来たとき、女性の部屋は一杯だったんです。でも、お年寄りですからどこでも気にしないというのでD号室に入院させました。その後、女性の部屋が空きましたが、尾久さんはさっぱりした気性の人で、男相手の方が話が面白いというので部屋を替わらず、退院するまでD号室でした」 「香野阿由美さんの場合は?」 「緊急でしたし、このときはまだ女性部屋が満員でしたので、とりあえず空いていたD号室のベッドへ入れたのです」 「では尾久さんの年齢、住所、電話番号を教えて下さい」 「田中君……」  言われて、留美子はカルテに目を移した。 「尾久フサさん、七十九歳。独身です。住まいは荒川区南千住三丁目。電話は……」  進介は片端から手帳に写し、電話を借りて特犯の三河課長を呼び出して全てを連絡した。三河課長は直ちに尾久フサを緊急手配すると言った。 「……しかし、尾久さんが人を殺したとはどうしても思えませんがね。一圓さんの落語にでも出て来るような、気の良いお婆さんでしたものね」  と、柳矢が言った。 「とても旅行好きで、会えば旅行の話ばかりしていました。日本中廻っていて、行かないところは死んだ亭主の郷里だけだそうです。少少お喋りでしたが、その分、世話好きで、元気になると看護婦の手助けはするし患者の面倒見が良くて誰にでも人気がありました」 「尾久フサの病名は?」  と進介が訊いた。  柳矢はちょっと勝畑の方を見た。そして、手にしたカルテに目を落とす。 「……尾久さんは座骨神経痛でした。当人は長いこと料理屋で働き過ぎたと言っていましたが、それが二階の階段を踏み外して痛みが直らず、当人は骨折したのではないかと思って来たんですが、レントゲンの結果、骨には異状が認められませんでした。九月一日に入院、六人の中では一番入院日数が多く、先月二十八日に退院しました。ですから、病院のことは何でも知っていて患者に重宝がられていましたね」 「D号室の人達と仲が良かったのですか」 「そういうことは、田中君の方が精しいでしょう」  留美子は、はきはき口を利いた。 「ええ、尾久さんはときどき他の病室へも出張するほどでしたわ。勿論、D号室の患者さんとは誰ともすぐ親しくなって、病状を聞いてやったり身上相談に応じてやったりしていました。六山さんや一圓さんには自分の子供のように、筒見さんや船水さんは自分の孫を相手にするように話していました。大体、D号室の男の人達は、わたし達が何か言っても喋りたがらない人が多かったんですけど、尾久さんに対しては別でした」 「では、尾久さんの見舞客は?」 「お友達がしょっちゅう出入りしていました」 「お友達だけですか。親類の人達は?」 「……身寄りらしい人は見たことがありません。自分は独り暮らしだと言っていましたし、身寄りがないのでいつ死んでもいい。でも、それだけはお迎えが来ないとどうにもならないと、お友達と話しているのを耳にしたことがあります」  一つのことが確かになっていくようだ。それは、D号室の入院患者の全てが、死を願っている、或いは前途に希望のない人ばかりということだ。 「尾久さんが誰とも仲良くしていたことは判りました。それで、D号室の全員が頭を寄せて何かを相談していたことがありませんでしたか?」  留美子は不思議そうな顔で進介を見た。 「全員が、ですか?」 「ええ、全員です」 「……全員が相談というところは見たことがありません」 「じゃ、何人かが一緒というところは?」 「D号室では夜中に、ときどき花札で遊んでいたことがあったようです」 「花札……賭博をしていたんですか?」 「賭けていたかどうかは知りませんが、尾久さん、六山さん、筒見さん、井舞さんだったかしら。夜中に何やら集まっていて、わたしが部屋に入ろうとすると、皆さん自分のベッドに戻って寝た振りをしたんです。それで、次の夜はそっと部屋に近付いて、さっとドアを開けたんです。すると、四人は花札を囲んでいました。勿論、夜遊びはいけないと、厳しく注意しました」  その四人なら、花札をしていてもおかしくはないが、それだけだったのだろうか。恐らく、何か謀議が企てられたとしても、外部には絶対秘密のはずだろう。花札は謀議の目眩《めくら》ましだとも考えられる。  進介は海方を見た。海方はとろとろしているようだ。進介は最後に言った。 「じゃ、その六人の入院と退院と、できれば病状を教えてくれませんか」  勝畑は眉間に皺《しわ》を寄せたままだ。柳矢は思い切ったように言った。 「まあ、こういう場合ですから仕方がないでしょう。患者には直接教えませんでしたが、癌の人もいるんです。もっとも、その患者は死んだそうですが」  柳矢が提示した資料は次のようなものだった。  六山代造 入院十月十四日、退院(逃亡)十一月一日。病名、急性胃潰瘍。  筒見 順 入院十月十七日、退院十月三十一日。病名、腕、脚等に創疾。  立田一圓 入院十月一日、退院十月二十九日。病名、胃癌。  船水栄一郎      }入院十月十八日、心中未遂のため入院。船水十月二十六日退院。  香野阿由美   尾久フサ 入院九月一日、退院十月二十八日。病名、座骨神経痛。  進介はその表に目を通した。 「立田一圓は、癌だったのですか」  柳矢はうなずいた。 「一応、手術はしましたが、全ては除去できませんでした。事故に遭わなくとも、あと一年か、一年半……」 「一圓の奥さんはそれを知っていましたか」 「奥さんは一度も病院へは来ませんでしたよ。別居中で居所が判らないと言っていました」  とすると、一圓は妻の菊子に入院すら教えていなかったことになる。菊子に迷惑を掛けないためなのだろうか。その一圓はフサに次いで入院期間が長い。進介は表を見てあることに気付いた。 「柳矢さん、六人は入院した日はかなりばらつきがありますね。しかし、退院した日は割に集中していると思いませんか。最初に退院したのが船水栄一郎で十月二十六日。最後に退院したのは六山代造で十一月一日、ほぼ一週間のうちに全員が退院していますよ」 「そういえば、一時、D号室ががら空きになっていました」 「そういうことはちょいちょいあるのですか。病院の都合とかで」 「いや、病院の都合などは一切ありません。それぞれの病状と患者の意向で退院が定まります。まあ、一部屋ががら空きになるということは珍しいことですが、最近なくはありません」 「まだ入院が必要なのに、好んで退院して行った患者がいますか」 「逃げた六山代造がそうでした」 「尾久さんもそうでしたわ」  と、留美子が口を挟《はさ》んだ。 「いや、あの人はいつ退院してもよかったんじゃないかな。神経痛の方はずいぶんよくなっていたようだし」 「神経痛の方はそうでしたが、尾久さんは内科で診てもらいたいと言っていました」 「内科で?」 「ええ。尾久さんは毎年、この季節になると喘息《ぜんそく》の発作を起こすんです。それで、その予防を相談したいようでした」 「それをせずに退院したのかね」 「ええ、急に思い立ったように家へ帰りたいと言い出しました。お年寄りはわがままですよ。急に家が恋しくなったからだと思います。薬局で喘息発作のときの頓服《とんぷく》をもらって帰って行ったようですけれど」  進介が言った。 「僕には年寄りの気紛れだとは思えませんね。D号室の六人の間に、何等かの相談がまとまって、尾久フサもそのために退院を早めたのだと思います」 「君、もう止したまえ」  と、今迄沈黙していた勝畑が叫ぶように言った。見ると額に青筋を立てている。 「この病院は殺人者の巣だと言いに来たのかね」 「そういう意味ではありませんが、事実はD号室で謀議が行なわれ——」 「何かと思って聞いていれば馬鹿馬鹿しい。よくまあそんな荒唐無稽《こうとうむけい》な話をこね上げたものだ。誰に頼まれてこの病院を潰そうとするのか知れんが」 「くう……」  海方の身体がもぞりと動いた。進介はまたまた海方がいびきを掻き始めたのかと思った。だが、よく聞くと言葉だった。 「くう……いや、空言の曲説だとおっしゃりたい気持は判りますがの」 「だから、何だと言うんだね」  勝畑は海方を睨み付ける。 「院長は各病室をお廻りになりますか?」 「……毎週月曜日に回診する」 「そのとき、D号室で何かお感じになったことがありませんか」 「私が診るのは患者の病状だけだ。犬のような真似はしないのだ」 「いや、恐れ入ります。もう、退散いたしますが、最後に」  海方は佐織の方を見た。 「あなたはこの前の祭日に出勤していられた」 「はい」 「祭日はいつも出勤ですか」 「いえ。あの日は特別でした」 「では、代休をもらう予定は?」 「今度の土曜日です」 「じゃ、土、日はお休みになるわけだ」 「そうです」 「いや、それだけです。皆さん、ご協力を感謝します」  海方はのそりと立ち上がった。  D号室は階段の前にある。海方は留美子にドアを開けてもらい、D号室の中に入った。  四つのベッドが塞がっていて、ドアの傍の二つのベッドが空いていた。四人の患者はそれぞれのベッドで、ひっそりと本を読んでいたり横になっている。どこの病院でも見られる、ありふれた光景だった。各ベッドは白いスクリーンで仕切られている。建物のところどころが痛んでいるのが判る。何本ものパイプがしみの付いた天井に這い、医療器具や照明なども一時代前の品だった。  二人が部屋の中を見ているとき、勝畑と佐織が連れ立ってD号室の前の廊下を通り過ぎた。 「……もう、頭痛は治ったね」  勝畑の声が聞こえた。     三  特別捜査本部はきりきり舞いしていた。  絶えず職員が出入りし、電話は鳴りっ放しだった。  尾久フサは昨日、十一月四日より家に戻っていないのだ。フサの住まいは東京ガスの工場の近くで、二階建ての住宅だ。所轄署の捜査員が到着したときには、すでにフサの姿はなかった。  隣家の主婦の話だと、フサは先月の末、手土産を持って、入院中は色色お世話になりましたと挨拶に来た。その主婦は、フサの入院中、投函されている手紙類を病院に届けたり、鉢植えに水をやったりして留守の雑用を引き受けていたが、一昨日の朝、再びフサが顔を出して、今度はしばらく旅行をするのだという。行く先を訊いたが、フサは方方廻ると言い、特に地名を口にしなかった。  捜査員が家に入ると、どの部屋もきちんと片付けられていた。ただ、応接室のテーブルの上に二つのコップが置かれたままになっていて、どのコップの底にもジュースの残りがあった。すぐ、指紋が調べられ、一つのコップにあった指紋は、後になってフサのものだと判明した。もう一つからは別の指紋も発見された。それと同じ指紋が、応接室のドアのノブにも残されていた。  どうやら、フサが旅行に出掛ける前に来客があった気配だが、近所の訊き込みからは、その人物は目撃されていない。  特別捜査本部は、全国の警察にフサを手配し、同時に旅行社や交通機関にもフサを見付けたらすぐ報告するように申し入れたが、しばらくは手掛りが報告されていない。  進介が本部に戻るとすぐ、刑事部長を初め三河課長が報道関係者の記者会見を終えて特犯の部屋に集まり、その後の進介の報告を聞いた。記者会見の時点では、警察はまだ連続殺人事件の骨格には触れず、主として尾久フサが自殺の恐れありとして発見に協力するよう申し入れたようだ。  海方は相変らず睡そうな目で捜査員や電話の報告に耳を傾けていたが、一段落したところでいなくなった。しばらくすると、手にそば屋の岡持ちをぶら下げて帰って来た。岡持ちの蓋を払うと濃厚な出しの匂いがあたりに拡がる。進介はそれで初めて夕食をしていないことに気付いた。 「このそば屋は味は及第だが、出前がのんびりで、いつも冷めて届くのが玉に瑕《きず》だ。だから、出来立てを持って来てやった」  海方は岡持ちから丼を二つ取り出し、一つを進介の前に置いた。丼の蓋を取ると色のいい大きな海老が載っている天ぷらそばだ。  遠くで見ていた三河課長が、びっくりしたように声を掛ける。 「珍しいことが発生しましたね。それ、本当に小湊君に奢《おご》るわけ?」 「そう、けちだが前祝いでの。D号室の定員は六名、六人目の尾久フサも間もなく捕まることだろうから、ちょんちょん千秋楽。お目出度うってわけだ」 「お目出度いのは結構ですが、明日になって太陽が西から出て来なきゃよいが」  海方は薬味の小皿を出した後、岡持ちの奥から四角な湯桶《ゆとう》を取り出し、自分の湯呑みに注《そそ》いでぐいとあおった。酒の匂いだった。結局はこの湯桶が飲みたかっただけのことだ。 「これだけは我慢しや。これから車を使わなきゃならなくなるかも知れないからな」  言い釈《わ》けめいて言ったところを見ると、多少の後ろめたさは感じているようだ。 「今頃は乙羽と楚台《そだい》の夢を結んでいるころだった」 「佐織さんとのことでしたら、何とも思っちゃいませんよ。次の被害者が予想される場合ですから」  と、進介が言った。 「いや、俺だったら、とつい考えてな」 「海方さんだったらどうします」 「今の俺なら仕事の方に目を瞑《つぶ》るね。俺の若いときは……そうでもなかったが」  進介はそばを口にした。海方が評価しただけあって、近頃珍らしい味だった。 「昔、似たような話があった。まだ、独身で、四課にいたときのことだがの。どういうわけか、美人の歌手と懇《ねんご》ろになったと思いねえ。名はどうでもいいが、今、大御所になっている歌手だから聞けば驚く。嘘だと思ったら安藤にでも訊けばいいんだが、女はどこか鶴に似ていた。俺はそのときから亀だったから、まあ相性は悪くなかった」  海方は大事そうに海老を口に運んだ。何となく冗談臭かったが、進介ははあはあとうなずく。 「その頃、芸能社と暴力団のごたごたが起こり、俺も首を突っ込んでいたんだ。その歌手にも関わりあいがあって、度度《たびたび》、顔を合わせるうちに、相手は俺が行くと燃えるような目をするようになった。そんなある日のことでしたよ。互いに約束を取り交わし、今夜こそ巫山《ふざん》の雲雨でしっぽり過ごそうとした矢先、事件だ。なに、今思えば俺がいなくてもどうにでもなった事件だが、俺も無鉄砲だ。女を捨てて事件の方に突っ走ってしまった。それっ切りさ」 「ちょんちょん、千秋楽ですか」 「おい、これは悲劇だぜ。 積る思いを。ときて、ちょん、さ。 残しける。と清元が悲痛な声で締め括《くく》らなきゃならねえ」  海方は湯桶を飲み続ける。 「しかし、悪いことばかりじゃねえ。その後は積る事件が片端から解決していった。俺はそのとき感心した。禍福は糾《あざな》える縄の如しとはあるもんだと思ってね。それからは事あるごとに出世の道を見送って来た」 「それなら、前にも聞きましたよ。海方さんはいつも良い運をつかむために、下らない運は見逃すことにしているんでしょう」 「まあ、思い通りになることは少ねえがの。しかし、さっきも乙羽佐織をどうにでもしてやることはできたが、気になることがあって中止した」 「何が気になったんですか」 「あの女は、院長と出来てる」 「知ってます」 「ほう……佐織が、そう言ったのか」 「ええ」  海方は目を丸くして進介を見た。 「それは、病院じゃ周知の事実か」 「いえ。院長は噂をひどく気にする人だそうです。体面もあって、今病気の妻が死んでも、佐織さんを正妻に直す気もないようです」 「それを小湊君に言ったとすると、こりゃ、本物だ。しかし……それを別の人間だな、たとえば尾久フサが嗅ぎ当てて、D号室の全員に喋っていたとする」 「院長がその秘密を守るために、一人一人を殺す、ですか?」 「いや、違うな。これはもっと根が複雑らしい」 「でも、尾久フサが逮捕されれば、事件は終りでしょう」 「そりゃ、終る。しかし、フサは屍体で発見されるかも知れねえ」 「とすると、事件はまだ続くことも予想されるんですか」 「いや、続かねえ。終りは終りだ」 「フサが殺されるとすると、犯人がいるわけですから、事件は終らないじゃありませんか」 「いや、終る」  海方は海老の尻尾をがりがりと食べ、そばに取り掛かっていた。 「不思議な話だがの。この事件だけは最初から俺の勘だけが狂って、悪夢の方が妙に当たる。さっきもとろりとして悪夢を見た。それは、最初殺された六山代造が、尾久フサを殺そうとしている夢だった」  ふいに、薬味が喉に引っ掛かった。進介は噎《む》せ返った。 「おい、驚いたか。無理もねえ、俺も驚いたんだ」 「しかし、六山は二日前に死んでいますよ。死人に人が殺せますか」 「殺せないこともねえ。藤原時平《ふじわらのときひら》は菅原道真《すがわらのみちざね》の怨霊に取り殺されたという」 「でも、これは現代の事件ですよ」 「現代なら機械や道具なども進んでいるからの。死ぬ前に罠を仕掛けておけば、自分が死んだ後でも人を殺せる」 「……前に、海方さんはこの事件を将棋倒しにたとえましたが、この将棋倒しは直線じゃなかったんですか」 「うん、まあるくなってるような気がしてならねえ」 「そんな恐ろしいことを考えたのは誰でしょう」 「判らねえ。もう、死んでしまった人間かも知れねえ」 「六山がフサを殺すとすると、どんな手を使うと思いますか?」 「それは色色考えた。六山は大工だった。大工だから、フサの家に宇都宮吊り天井のようなものを作りかねねえ」 「その閑《ひま》がありましたか」 「あった。六山は病院を出た一日から二日まで、二日間はフサの留守に家へ忍び込むチャンスがあった。かなりのことができそうだ。だから、さっき、尾久フサの担当に注意してやったんだが、今のところ家に異状はないそうだ」 「フサはなぜ旅行に出たんでしょう。一圓と同じように、死に直面して六山の仕掛けが恐くなって逃げ出したんでしょうか」 「そうだな。フサは最終走者《アンカー》だ。自分さえ生き延びりゃ、他は皆死んでしまっている。約束が違うと言われる心配もねえからの」 「それが正しいとすると、勝畑病院はただD号室が六人の共謀の場となっただけで、元元、何の関係もないわけですね」 「そうだ。だがそれを顔に出すことはねえ。病院が怪しいような振りをして、どんどん病院へ通い、佐織を逮捕しろ」  海方はそう言って、天ぷらそばの最後の汁《つゆ》をすすり込んだ。     四  海方と進介は本部に泊まり込むことになった。  夜になっても尾久フサの行方は途絶えたままだった。  フサの家には慎重な家宅捜査が続けられたが、怪しい仕掛けが発見されたという報告は入って来ない。  その代わり、フサに関する情報はかなり豊かになった。  尾久フサは東京の浅草で生まれ、生家は大きな履物《はきもの》店だった。一人娘だったが評判の器量良し、縁あって店で働いていた御蔵島《みくらじま》出身の職人を婿にもらった。戦前は店も繁昌していたが、戦災で家を焼かれ、戦後は下駄の需要は減るばかり。夫は変に頭が固い職人気質で、皮靴やサンダルを店に置くことを嫌ったから、たちまち家が傾きだした。子のいないせいか、フサも食べるに事欠かなければと欲がなく、終《しま》いには店を売って荒川の現在の地に建売り住宅を買って引越した。夫とは十年前に死別。フサは下町育ちらしい活発なお婆さんとなったが、ここ一、二年、めっきり衰えが目立ち、気弱になって病院通いが多くなった。特に勝畑病院へ出入りするようになったのは、易者に方向を見てもらい、勝畑病院が最良の場所にあったからである。入院する以前には、六山を初めD号室の患者の誰とも交際がなかったことも判った。  本部に次次と入って来る報告で、尾久フサ関係以外にも新しい事実が判って来た。  第一に、三浦で死んだ立田一圓は城ケ島で何者かに狙撃されたらしいことが妻の菊子の口から判明した。  一圓と菊子が城ケ島の磯を散歩中、すぐ後の岩が鋭い音とともに砕け散ったのだという。菊子は上から石でも落ちて来たのではないかと思って、最初は大して気にもしていなかった。だが、警察で問いただされると、一圓はそれがあってからどうも落着きがなくなったらしいことを思い出した。一圓は急に帰ると言い張り、ハイヤーを急がせたのである。ただし、一圓は何でそうなったかは菊子に打ち明けないまま、いるか屋の前で死んだ。  本部はすぐ城ケ島に駈け付け、附近一帯を捜索した結果、最近発砲された銃弾を発見した。弾丸は科学捜査研究所に廻され、香野阿由美が父親のところから持ち出したライフル銃から発砲されたものであることが判った。 「もし、あの事故がなかったら、一圓はいるか屋の前で撃たれていたに違いねえ」  と、海方が忌忌《いまいま》しそうに言った。 「しかも、俺達の目の前でだ」 「一圓はなぜ白秋館へ戻らなかったのですか?」  と、進介が訊いた。 「一圓は逃げたんだ。一圓は城ケ島で菊子に見守られながら死ぬはずだった。だが、弾が逸れた瞬間、急に恐くなって逃げ出したんだ。俺はあの泥棒鷹に感謝したい気持だね。目の前で俺が追っている犯人が殺されたら、とてもやり切れねえからの」  菊子は一年ほど前から、一圓の胃の調子の悪いのを知っていた。だが、それは深酒のためで、癌が進行しているとは気付いていない。  一圓は勝畑病院の診察を受け、手術を勧められていたが、なかなかふん切りが付かず、九月二十日から三十日まで、むら咲《さき》の下席《しもせき》を勤め、それを終えてからやっと入院した。  次の被害者、香野阿由美の解剖の一報も入った。  阿由美は両手で頸部を強く絞扼《こうやく》されたことによる窒息死だった。気道と声門がこの圧迫によって閉塞されたのである。阿由美の手の爪にわずかだが血液が附着していた。死の直前、窒息の苦痛から加害者の腕などに爪を立てたときのものらしい。それを裏付けするように、船水栄一郎の背から引っ掻き傷が見付かり、血液型も船水のものと一致した。  阿由美の体内には男性の体液が残っていて、船水の血液型と一致。ホテル富士見の部屋の至るところに船水の指紋が発見された。また、船水のアパートの部屋からはホテルから持ち去った阿由美のバッグも見付かった。  以上のことを総合して、船水は十一月四日の夜、ホテルの一室で、愛の極致のとき阿由美を扼殺し、被害者の衣服を着せ姿を整えてからホテルを出たことは疑いのないものとなった。  ただ、阿由美に次ぐ船水栄一郎のことになると、まだ不明な点が多い。  船水の屍体には窒息死の徴候が顕著に現れていた。だが、排気ガスは車内に引き込まれた形跡はないし、車内で火を燃したような痕跡もない。 「一酸化炭素中毒でなければ、何だと思う?」  と、海方は進介に質問した。 「さあ……」 「簡単な連想だがの。一の次は二だ。二酸化炭素だ」 「……二酸化炭素?」 「そう、普通に言うと、炭酸ガス。船水の屍体を覚えているかね。厚手のセーターを着て皮ジャンパーに手を通そうとしていた。しかし、その日の温度はジャンパーを着るほどじゃなかった」 「……と言うと?」 「それまで言って、まだ判らねえのか。外は暖かだったが、車の中は冷え切っていた」 「クーラーでも入れたんですか」 「クーラーを入れて車を冷やし、ジャンパーを着込む人間がいるかね。そうじゃない。船水の気が付かない車のどこかに、ドライアイスが持ち込まれていたんじゃないか」 「ああ、二酸化炭素を出すドライアイスですね……」 「いや……違うな。ドライアイスだけならたくさん必要だから、船水に気付かれてしまう。寒気……悪寒……。そうだ。もっと物凄い奴が使われていたかも知れねえ」 「もっと物凄い奴、というと?」 「毒ガスだ。一九三四年、ジャガイモの害虫駆除剤を研究していたドイツの製薬会社が、有機リン剤を合成した。ナチスドイツはすぐこれに目を付け、製薬会社に資料公開を禁じてしまった。有機リン剤を基に、強力な毒ガスを開発するためだ。何年か後、無色無味無臭のジャーマンガスが次次とナチスの手で作り出された。これを少しでも嗅ぐとすぐ寒気が起き、続いて嘔吐、痙攣が生じ、失禁して死んでしまう」 「……そんな恐しい毒が、どうしてフサの手に入ったんです」 「当時と違い、今じゃ有機リン剤はどこででも手に入る。洗剤に使われていたこともある。触媒を使って二酸化炭素と結合させると、とんでもないガスが発生するんだ。あるドイツ人から聞いたんだが、これは使えると思ったから覚えている。待てよ……その触媒だが、なんと言ったか」 「それで、車の中にあったクッションを調べるように言ったのですね」 「そのときは万が一と思った。だが、今じゃ万が五千ぐらいにはなったかの」  それも、遅くなってからだったが結果が報告された。クッションの内部から毒ガスが検出され、更に被害者の血液の化学検査で、船水は有機リン系のガスによる窒息死と断定された。  ただし、それが尾久フサによってなされたかははっきりしない。常識的にいって、駐車場の車には鍵が掛けられていたはずである。それにドライアイスが関係しているのは間違いなさそうだが、フサはどうやって船水の車にドライアイスを持ち込むことができたのだろうか。 「ドライアイスの入手先は、多分、料理屋だろう」  解剖の結果を聞いたとき、海方はそっと進介に言った。 「なるほど、料理屋ならドライアイスを使うでしょうね」 「フサは長い間、料理屋で働いていたというぜ」 「そのことにはまだ誰も気が付いていません」 「ちょっと三河さんに耳打ちしてくれ。俺が言うと角が立つ」  進介が三河にそう述べると、三河は手を打ち、 「それは素晴らしい考えです。小湊君、ご苦労だがその方面を頼みます」  と、言った。  何のことはない。海方が言って角が立つわけはない。海方はただ、自分が動きたくないだけなのだ。  進介は荒川警察署に電話を掛け、フサの元の勤め先を問い合わせたが、すぐには判らなかった。九時になって返事が帰って来た。フサは二年ほど前まで「茶《さ》の市」という料席に通っていたことが判った。フサの住まいからは遠くない、橋場三丁目。隅田川の近くだ。  進介は早速、茶の市に電話をしたが、どうも要領を得ない。進介は直接行くことにした。ドライアイスは時が経てばどんどん消えてしまう気がしたからだ。  茶の市は高級な料席で、幸いなことに、外出していた主人が帰って来たところだった。  主人は尾久フサが手配されたことを聞くと、少なからずびっくりしたようだ。 「……確かにフサは内で働いていました。フサの夫が死んでからすぐ勤めるようになりましてね、七、八年は内にいたでしょうか。なかなかまめで、よく働いてくれましたが」 「フサは最近、ここに来ませんでしたか?」 「昨夕、来ましたよ」 「昨夕……」  海方の勘がまた当たった。 「五時頃でしたか。退院の挨拶に来たのですよ。一度、見舞いに行ってやったことがありましてね。それと……しばらく遠くで暮らすとも言っていました」 「どこで暮らすのか言っていませんでしたか」 「ええ。落ち着いたら連絡するとのことで、行く先は聞いていません」 「そのとき、尾久さんは調理場へ入りませんでしたか」 「ええ、源さんと会いたいと調理場にも顔を出したようです」 「その源さんにちょっと訊きたいことがあるんですがね」  主人は調理場へ案内した。板前の源さんは仕事を終えて一服しているところだった。年齢は六十前後、でっぷりと肥って鼻の頭が赤い男だった。  進介はフサが調理場から、ドライアイスを持ち出さなかったかと訊いた。源さんは首を傾げた。 「そう言えば隅の方に行って、何かこそこそやっていましたね。ちょうど、忙しい最中で、別に、気にもしませんでしたが」  フサは土産物を丈夫そうな紙袋に入れて持って来た。その紙袋だけは最後に持って帰ったという。  ドライアイスは会席料理の最後、冷菓の器に添えるのだそうだ。毎日、二キロのドライアイスが届けられるが、日によって注文の量が違うことがある。 「尾久さんが来た日はどうでしたか?」  源さんは下働きの使用人を呼んだ。まだ十代の少年で、ドライアイスの受け持ちらしいが、あまり賢こそうではなく、その日のこともはっきり答えられない。  結局、フサの挙動から推して、茶の市の料理場からドライアイスが持ち出された可能性が残された。 「フサがそんな大それたことをしたとすると、昨夕は永のお別れのつもりだったのかも知れませんね」  茶の市の主人は悲痛な表情で言った。  進介は本部に戻り、そのことを報告した。  三河課長はふんふんと言って聞いている。進介が出て行ったときと較べ、何か興奮がなくなっている。多分、寝てしまっただろうと思った海方もちゃんと自分の机にいる。 「何かあったんですか」  と、進介は海方に訊いた。 「あった。今度も俺の勘がまるっきし外れたよ」  海方は苦り切った顔で言った。 「今、尾久フサの家を捜索している係から連絡があった。フサの鏡台の引出しから鍵が一本見付かった。係が見たところではまだ真新しくて表面に磨滅が少ない。最近、コピーされたばかりの鍵らしいという。しかし、その鍵はフサの家のどの錠にも合わない。これをどう考えるね?」 「……判りません」 「俺には、ぴんと来た。その鍵は多分、五番目の被害者、船水栄一郎の鍵のコピーに違いねえ、とね」 「なぜ、船水はフサに自分の鍵をコピーしてやったんですか?」 「だめだの。まだ判らねえか。船水はフサが自分を殺し易いように、自分の鍵をフサに渡したんだ」 「……すると、フサの犯行に協力したことになります」 「そうだ。最初の被害者、六山代造の屍体を覚えているの。六山は広い競馬場で、加害者の筒見が見付け易いように真っ赤な帽子をかぶっていた。その上に、筒見が刺し易いように、肌寒い日だったが、上着を脱いでいた」 「……最初、海方さんは、それが気に入らないと言っていました」 「今、思えばほとんどの被害者が、何等かの方法で加害者に協力していた。一番目の加害者、筒見順は自分の加害者、立田一圓をアジトに引き入れ、拳銃を渡して自分は後ろ向きで電話を掛けていた。その一圓は殺されるのが恐ろしくなって逃げ出したから別だが、香野阿由美は船水に身を任せて少しも抵抗せずに首を絞められている。ただ、断末魔の苦しみのとき、船水の背に爪を立てただけだ。普通なら、首を絞めている相手の腕に爪を立てるだろう」 「判りました。つまり、船水は出入りを自由にするため、加害者のフサに鍵を渡したのですね」 「と、そこまではよかった」 「鍵は車のでしたか」 「俺も最初はそう思った。だが、外れたよ。今の電話だと、その鍵は船水の車のでも、部屋のでもない」 「実際に、鍵穴に当てたのですね」 「そうだ。鍵穴にも入らなかったという。全く妙だの」 「フサの持っていた鍵が船水のものでないとすると、フサが船水を殺したという重要な証拠がなくなってしまいますよ」 「そうなんだ」 「じゃ、この将棋倒しは円型じゃなくなりますね」 「いや、円型だ」  海方は強情に主張する。その主張を通すため、とんでもないことを思い付いた。 「よしか。船水とフサとの間に、誰かもう一人加われば、まあるくなるんだ」 「……もう一人、被害者が出るというんですか」 「そうだ。その人物が船水の鍵を持っている。また、フサの持っていた鍵は、その人物が使っている鍵だ」 「しかし……D号室のベッドは定員が六名——」  海方はうんざりしたように、椅子へ腰を落とした。 「小湊君。乙羽佐織に連絡できるかな」  進介はダイヤルを廻したが、呼出音だけが続き、受話器を取る者はいない。  仕方なく、勝畑病院を呼び出したが、柳矢外科部長も田中看護婦長もいない。院長の行き先も判らず、全員が自宅にも戻っていない。最後の手掛かりはホテル富士見だが、 「香野阿由美がホテル富士見で殺されたばかりだ。まず、二人はいなかろう」  と、海方が予測した通り、勝畑も佐織も宿泊していなかった。 「……はて、どこで約束したか知らねえが、当分、ちょんちょん、千秋楽というわけにはいかねえようだの」  海方は窓際に立って夜空を見上げた。  進介はこの同じ東京の空の下、どこかで佐織が勝畑に抱かれていると思うと、嫉妬に近い感情に襲われ、思考は低地に向かう水のように佐織から遠離《とおざか》ることができなくなった。   六章 名は古里へ     一  紺青の朝空。  停留所に着いたバスは、多勢の通勤者や学生を吐き出した。交通整理係が鋭く笛を鳴らし、黄色の旗を振る。  ほとんど寝ていない進介の目には、朝日を受けるものの全てが眩《まぶ》しい。何台目かのバスから、佐織が降りて来た。佐織は昨日と同じ白無地のカシミヤのセーターに花柄のスカートだった。進介は佐織の近付くのを待った。  佐織は進介に気付くと、恨むような表情になった。顔色が白すぎるのは、疲れている進介の目のためだけではなさそうだ。 「意外と早かった」  佐織はお早うも言わず、歩調も緩《ゆる》めなかった。進介は急いで佐織の横に並んだ。 「ずっと、わたしのことを尾《つ》けていたわけ?」 「いや、違う。知りたいことがあって昨夜から病院に電話していたんだが、柳矢さんも君もいない。他の医者や看護婦は何も答えてくれない」 「院長から事件のことは何も喋るな、と言い渡されてあるのよ。それでなくとも、このところ報道関係者が多勢集まって来て、仕事にも差し支えるほどなんです」 「僕は報道関係者じゃない。警察の人間だ」 「捜査令状はお持ち?」 「……必要とあれば、いつでも取り寄せる」  佐織は勝畑病院の玄関に入り、そのまま階段を登った。薬局の前にいた看護婦長の田中留美子が胡散臭《うさんくさ》そうな顔で二人を見送った。佐織は鍵で院長室を開け、中に入った。ドアは開け放しにされたままだった。 「例の外科D号室だが、六山やフサが入院していたとき、ベッドは本当に六つだけだったんだね」 「そうです。昨夕、柳矢さんからお聞きになったでしょう」 「D号室にベッドが増えるようなことは?」 「……緊急の患者が来て、ベッドが一杯のときには、臨時のベッドを置くときがあります。でも、ここしばらく、D号室に臨時ベッドが入ったことはありません」  進介は当惑して手帳を拡げた。何度も検討を重ねたページだ。 「……六人の内、一番後から入院して来たのは船水と阿由美で、十月十八日に運び込まれた。そして、一番最初に退院したのは、船水栄一郎で、それが十月二十六日。つまり、十八日から二十六日の九日間にD号室に六人が全員顔を揃えていたんだ」 「それも、昨夕、柳矢さんが話したはずですわ」 「謀議はその九日間の間に行なわれたに違いないんだが、あと一人、何かの形でそれに参加していた可能性がでてきたんだ」 「……ちょっと違うところがあるわね」 「違う……どこが違う?」 「全員が顔を揃えたのは、九日間じゃなくて、正確には、数時間よ」 「……数時間。それはどういうこと?」  佐織は窓のブラインドを調整し、棚の書類を点検した。 「さっき、病院の調べは口実だと思ったわ。でも、本当なのね。あなたは心から殺人犯を追い廻すのが好きなのね」 「好きも嫌いも——これは仕事だ」 「判ったわ。それなら、それでいいわ」  佐織は何か言ってもらいたいのだ。理解ある言葉を口にのせればいいのだろうが、今、頭は佐織の洩らした「数時間」で一杯だった。 「その、数時間の意味を聞かせてほしい」 「……D号室に入院した六人の内、香野阿由美さんだけは、翌朝早く退院したんです」 「数時間……心中して運び込まれた、翌朝早く?」 「ええ、すぐ、香野さんのお父様が駈け付けて来て、二人がベッドに並んでいるところを見ると顔色を変えて、すぐに二人を別別にしろ、と」 「…………」 「ちょうど、外科の個室に空部屋がありませんでした。お父様は院長に会い、自分の知り合いがいる大病院に阿由美さんを移したいと主張しました。院長は事情が事情ですので、仕方なく承諾しました。しばらくするとその病院から寝台車が来て、まだ、意識のはっきりしていない阿由美さんを運び出しました」 「じゃ、そのときは船水も阿由美が連れ出されたのを知らなかった」 「ええ」 「……昨夕、なぜそれを教えてくれなかったんだろう」 「皆さん、香野さんと船水さんを一まとめにして考えていたから。あなたのボスも、昨日は六人が顔を揃えていたことばかり気にしていたでしょう」 「……すると、阿由美のいなくなったベッドには?」 「一、二日して次の患者さんが入院してきました」  その人物は一週間ほど、D号室の患者と一緒だったわけだ。意識不明で半日も入院していなかった阿由美より、重要な人間である。進介は頭がかっとした。 「そ、その患者というのは?」 「わたし、あまりよく覚えていません」 「カルテが見たい」 「さっきも言ったでしょう。院長が厳しいんです。そんなことできません」 「じゃ、すぐ捜査令状を持って来る」 「仕方がないわ……だったら、同じですものね」  佐織は意を決したように部屋を出て行った。しばらくすると、固い表情で戻って来て、電話のメモへ一気に何か書き付け、一枚を裂いて進介に手渡した。 「カルテを持ち出すわけにはいかないから、覚えてきました。これがその患者です」  進介はメモを見た。  ——浜元司《はまもとじ》、四十五歳、ビル経営業、十月十九日入院、十月三十日退院、胃壁組織を切開採取、病名、良性ポリープ……  そして、電話番号と住所が続いている。江東区石島一丁目。病院の近くだ。 「この男は手術を受けたわけじゃないのかな」 「それは判らないわ。住所と電話番号を見るだけで精一杯だったから。とにかく、それを持って出て行って頂戴。わたしがこんなことをしたことが知られたくないから」 「判った。明日は土曜日だ。会えるね?」 「……だめ。約束があります」 「出勤するわけじゃないんだろ」 「ええ。でも、仕事なんです」 「だったら、終ってからでいい」 「わたし、東京にはいません」 「……どこにいる?」 「樹洋荘。蓼科《たてしな》にある院長の別荘での仕事を頼まれているんです」 「……そんなもの、口実を付けて断わったらいい。とにかく、後で電話をする」 「電話でしたら、夜、自宅に下さい」 「判った。色色無理を言って、済まなかった」  進介は部屋を出た。一刻も猶予がならない。進介は一階のロビーへ出て赤電話で海方を呼び出した。 「よし、俺もすぐ行くから、直接、現場へ行ってくれ。その場所は君の方が近い」 「尾久フサの行方は?」 「まだだ。物は順ぐりだ。浜の屍体が見付かって、それからフサの番だ」     二  浜ビルはすぐに判った。  大通りに面した飾り気のない八階の建物だったが、そのビルの前に車を駐めたとき「ドライアイス」の文字が目の中に踊り込んできた。  一階の一部が宅急便の集配所で、生ものの輸送用にドライアイスや発泡スチロールの容器が小売されているのだ。値段表もある。  海方のドライアイスについての推理が頭をよぎる。  集配所の横が玄関で、奥に入ると郵便受けが見えた。七、八階に「浜」姓が並んでいる。進介はエレベーターで八階に登った。エレベーターを出ると、制服の巡査が二人立っていた。進介は身分を告げた。 「本部から連絡を受け、すぐやって来ました」  と、眼鏡を掛けた巡査が言って、三つ並んだドアのうち、左側を指差した。 「これが浜元司の住まいです。さっきからチャイムを押しているのですが、応答がありません。この下、七階の同じ位置に息子夫婦が住んでいます。今、その奥さんに頼んでビルサービスの会社を呼んでもらっています。ええ、マスターキイを持って来るように言いました」  エレベーターの数字が動き始めた。数字は七に降り、再び八に戻る。ドアが開いて若い女性が飛び出して来た。小柄だが気の強そうな感じで、口を尖らせてものを言う。 「一応、電話はして来ましたがね。心配して下さるのは結構なんですが、お義父《とう》さんは大丈夫だと思いますよ。あの人はいつもこんなに早く起きたことがないんです。大体、昨夜だって帰って来たかどうか判りゃしないわ。あら、この人は?」  進介は警視庁から来た、と言った。 「まあ、刑事さん? ずいぶん、大袈裟《おおげさ》になったのねえ」 「浜さんの、奥さんはいらっしゃらないんですか」  と、進介は訊いた。 「ええと……今日は、というより、いた方が少ないんですよ。テニスをしたり、水泳に行ったり、ゴルフにも夢中でしてね」 「浜さんは一週間ほど前に退院されたばかりなんでしょう」 「あら——それ、誰のこと?」 「浜元司さんですよ」 「本当……ちっとも知らなかったわ」 「入院していたことも?」 「ええ。でも、大したことじゃなかったんでしょう。わたしが知らないんだから。でも、刑事さんはどうしてそれを知っているの?」  再びエレベーターのドアが開いた。ビルサービスの会社の係員だった。進介はドアのノブに残された指紋が消えないように指示した。  注意深くドアが開けられる。  玄関の明りは消されていたが、奥からの明りで、ドアの受け口に朝刊が入っているのが判る。進介は奥に声を掛けたが返事はない。靴を脱いで部屋に入る。玄関の傍にトイレと浴室が続き、最初の部屋が贅沢《ぜいたく》なダイニングキッチンで、その奥がベランダのある和室だった。その他、寝室、洋室など、かなりゆったりとした部屋数だったが、全部を見て周る必要はなかった。  屍体は電灯とテレビのつけ放された和室に転がっていた。  部屋の中央に鎌倉彫りの座卓があり、その上に平鍋を載せた卓上電気コンロ、その周りには小皿、ワインの酒瓶、グラスなどが散らばっている。 「あら、お義父さん、転《うた》た寝をして、だめじゃない」  と、息子の嫁が言うのも無理はない。ちょっと見ると、揺り起こしたくなるような倒れ方だった。  進介は駈け寄って瞳孔と脈を診たが、診るまでもなく身体は冷え切っていた。それを知ると、息子の嫁はへたへたと床に坐り込んでしまった。  元司は酒に酔い、好物の鍋を食べながら死んで行ったのだ。  そのうちに、向島署の捜査員、警察医、捜査本部からは海方を初めとする特犯や一課の係官が前後して集合する。全員、最初から他殺としての扱いで、各捜査員はすぐ段取りよく持ち場に取り掛かる。 「まず、窒息死に似ているが、火もちゃんと消えているし、部屋も広くて換気は悪くなさそうです」  と、警察医が言った。 「すると、毒ですかな」  海方は座卓の上を眺め廻す。 「それも、即効性のね。この様子を見ると、河豚《ふぐ》鍋って感じです」 「自分で料理をしたのかな」 「さあ……そこまでは判りません」 「なんの、独り言だ」  進介はダイニングキッチンの流し台を覗いてみた。調理台には俎《まないた》、庖丁、野菜の切れ端などが散乱している。 「亀さん、ちょっと……」  見ると向島署の一課長が困惑した顔でいる。 「今、元司の神さんが帰って来た。三枝子っていうんだが、ヒステリーを起こしてるんだ。例の手管で、口説いてくれないか」 「うう……特犯にゃ色男が揃っているからの」 「あんたみたいに、どんな女でもいいってのがいないだけだ」  海方は進介を見て言った。 「君も来てくれ。傍にいて色目ぐらいは使えるだろう」  三枝子は応接室で捜査員を相手に興奮し切って喋っていた。もっとも、この部屋で落ち着けと言う方が無理かも知れない。  赤い花柄の絨毯《じゆうたん》、金色のテーブルに金皮の椅子。窓の周りは色とりどりの造花で飾り立てられている。前衛的な油絵に大きすぎるシャンデリア、電話機はロココ調、キャビネットはゴシック風と取り留めがない。 「……昨夜、わたしがどこにいたって、関係ないでしょう。わたしは自分の責任で行動しているんですから。それが、主人を亡くしたばかりのわたしに対する態度なの」  三枝子はびっくりするほどこの部屋の雰囲気そのままだった。髮を金色に染め、濃い化粧。胸元を拡げた夜会服のようなワンピースを着て、シャンデリアに似たイヤリング、メダルのようなペンダント、ルビーの指輪。  海方はのそりと部屋に入り、飾り棚に載っているアンティック人形に目を近付けた。 「……ほう、デュモンティエですな。よくこれがお手に入りました」 「あんた、誰? 断わりもなしに」 「これは失礼しました。特犯の海方と申します。こちらの若いのは小湊君。私共はあなた方の下僕です。何なりとご用を命じて下さい」 「今、わたしに必要なのは刑事より坊主だわ」 「よくわかっておりますよ。そのような雑用は若奥様が連絡なさるものです。おや、この香りはシャネルの〈クリスタル〉じゃございませんか?」 「……ええ」 「なるほど行動派のマダムにふさわしい香りですな。数年前の女性コピーライター全裸殺人事件の犯人はこの香水の手掛かりで逮捕されました」 「まあ……特犯の方は普通の刑事さんとはどこかが違うわね」  前にいた二人の捜査員はそっと部屋から出て行く。進介も無理矢理に微笑《ほほえ》みながらドアを閉めた。 「ところで、奥様。まだ、何か、全体に、刺戟的でいらっしゃる」 「あら、お判りになった? 羞《はずか》しいわ」 「いえ、お肌の艶が尋常ではございません」 「判っていただけるかしら。主人はもうずっと前からその元気がございませんの」 「そうだろうと思いました。本当にあなたは淋しい女性なのですね」 「ときどきは燃え盛る焔を静めないことには気が狂いそうで——」 「そのお若さなら当然です。それで、昨夜のお相手は?」 「あら、危険な人ね。あなたの前だと何もかも喋ってしまいそうだわ」 「いえ、私めは絶対に洩らすようなことはありませんからご安心下さい」 「テニスの若いコーチで……判って下さいませね、わたしの方から声を掛けたのではありませんわ。あら、そちらの若い方に何となく感じが似て……」 「この男はスポーツマンですが、まだ初心《うぶ》でして、ほら、もう顔を赤くしているでしょう」  進介は海方のおべんちゃらに顔が赤くなっていただけだ。 「ところで、ご主人はなかなかのグルメでいらっしゃったようですね」 「いえ、グルメなどというのではありませんわ。ただ、他に楽しみがなくなってしまったので、やけで大食しているだけでした。それで胃を変にしたのね」 「料理もご主人の趣味で?」 「ええ。主人はお魚が好きでしたが、わたしは触るのも嫌い。だって、お魚って生臭いでしょう。それで、わたしがいないと隠れて料理していました。隠れてしても判るんです。お勝手に臭いが残りますから。それで、最近はお魚屋さんに頼んで拵《こしら》えてもらっていたようですわ」 「どこの魚屋でしょう」 「……さあ、店を持たない行商のお魚屋さんみたいですわ。毎晩五時頃になるとご用訊きに来て、刺身や叩きを作らせていたようです。あ、そう、主人はときどき電話をしていたようです。電話帳をお調べになったら?」 「じゃ、小湊君」  進介は立ち上がった。 「調べが終ったらすぐ戻って、奥様に喪服のお着せ替えなど手伝いなさい」  見ると海方はそう言ってからハンカチを取り出し、口を押えている。自分でも気持が悪くなったに違いない。  ダイニングキッチンの電話帳には、意外と几帳面な字で「山崎魚店」の番号が記されていた。早速、進介はダイヤルを廻す。 「こちらは、警察の者ですが」 「やあ、駅前の派出所ね」  若くてきぱきした声が返って来る。 「そうじゃない、警察。警視庁の捜査の者ですが、ちょっと尋ねたいことがあります」 「……どんなことでしょう」 「昨日、浜ビルの浜さんのところへ行きましたね?」 「浜さんならお得意さんです。毎日、五時にはうかがいます」 「昨日も五時に行ったんだね」 「ええ、前の日、鮟鱇《あんこう》のご注文がありましたから」 「……鮟鱇ね。河豚じゃなかったんですね」 「河豚じゃありません。たまには河豚もお勧めするんですがね。浜さんはまだ僕の腕を信用しないんですよ」 「河豚の許可を持っているね」 「ちゃんと持ってますよ。腕も確かでさ」 「ところが、浜さんは昨夜、自宅で鍋物を食べて、死んだんだよ。どうも、河豚でやられたようだ」 「ほ、本当ですか……」  山崎はしばらく絶句していた。 「昨日のは河豚じゃなかったんだろうね」 「冗、冗談じゃありません。鮟鱇と河豚の区別のつかねえ魚屋がいますか。昨日の朝、河岸《かし》で一匹仕入れて来たんです。浜さんには二人前を作って差し上げました」 「肝《きも》も混じっていたんだね」 「ええ。何ですか、僕が疑われているんですか」 「そうじゃないが、確認のため訊いています。残りの鮟鱇は?」 「それぞれのお得意さんへ分けましたよ。でも、それを食べて死んだ人は一人もいませんね。もし、河豚だとすると、ご自分でどこからか手に入れて来たんだ。僕が売ったのは絶対に河豚なんかじゃありません」 「昨日の五時、浜さんはどんな様子でしたか」 「お元気でしたよ。退院されてからは日増しに顔色も良くって。でも……」 「何か、あったんですか」 「いえ、大したことじゃないんですが、今日は良い鮟鱇が手に入りました、と魚を見せますと、浜さんは、ほう、相変らず気が利いているなと言いました」 「自分で注文したのに?」 「ね、ちょっと変でしょう。でも、よく考えると、電話で注文したのは奥さんでした。だから、奥さんはまだ旦那の耳に入れていなかったのかなと思い、別にそのときは気にもしませんでしたがね」 「でも、奥さんは魚が嫌いだ」 「そうなんです。いつもはご主人が出てお相手するんですが、たまに奥さんが出ていらっしゃると、やれ鱗《うろこ》が飛ぶとか膏《あぶら》が跳ねるとか一一|口喧《くちやかま》しくて」 「電話の声は本当に奥さんだったのか」 「いや、それもよく考えると違うんです。もう少し年を取った感じでした。奥さんでないとすると、お友達かお身内の方でしょう」 「それで、二人前作らせた」 「と言われると、また変ですね。浜さんの一人前は他の人の二人前なんです。浜さんはいつも、刺身でも切り身でも一人前じゃもの足りないとおっしゃって、二人前を拵えさせます」 「すると、他の人がいれば、二人前以上は作らせたろうな」 「そうなんです」 「奥さんとはいつも食事は別別なのかね」 「そうみたいですね。奥さんは料理が大嫌いですから、外食がほとんどです。でも、浜さんはその方がよっぽどいいと言っていました。夕方になるとゆっくりと湯に入って、お酒をちびちびやりながら僕の魚で好きな料理を作り、テレビを見ながら夕食にするのが毎日の楽しみでした」 「判った。じゃ、君の住所を教えて下さい」 「本当なんですよ。僕は昨日、河豚を一匹も扱っちゃいませんよ」  進介は魚屋の住所を控えて電話を切った。応接室に戻ると、海方は三枝子のワンピースの背中のホックを外してやっているところだった。     三  夕食後、八時から特犯の部屋で捜査会議が開かれた。  角山刑事部長、三河特犯課長、林一課長を中心に、事件の起こった各所轄警察の担当捜査主任、主だった専従捜査員がぎっしりと集まり、部屋の中は熱気で暑いほどだった。  最初に三河特犯課長が緊張した顔で、浜元司殺害事件の、これまでの経過を説明する。 「……解剖の結果によりますと、浜元司の死亡時刻は前日五日の夜、七時前後、死亡原因は河豚毒による中毒死であります。解剖によって被害者の各臓器から河豚毒が検出されました。また、浜家の現場にあった平鍋の中の食べ残し及び、ダイニングキッチンのごみ入れから、有毒な河豚の臓器が発見されています。  次にその河豚の経路でありますが、昨夕五時、浜家に出入りする山崎という魚行商人が元司の注文で鮟鱇を搬入しております。しかし、山崎の家を捜査した結果、冷蔵庫から売れ残りの鮟鱇の一部及び数種の魚があっただけで、河豚を扱った痕跡はありませんでした。とすると、当然、何者かが後から鮟鱇に毒を加えたという疑いが起こるのです。  となると、問題となるべき点は、前日、魚屋に鮟鱇を注文した者は元司自身ではなく、電話の声によると中年以上の女性だという点です。元司はそのことを全く知らなかったようで、魚屋が鮟鱇を示すと、初めて鮟鱇が欲しくなったという感じで、鍋物用に拵えさせたということです。その声の主は、鮟鱇に毒を混入した犯人といっていいでしょう。その後、元司はいつもの習慣でゆっくりと入浴し、料理に掛かったと思われます。元司の妻、三枝子は留守ですから、元司が独りで入浴しているとき犯人が忍び込んだのでしょう。犯行はこの時間以外はなく、犯人は元司の入浴中を狙って部屋に侵入し、魚屋が作った鮟鱇の中に河豚の肝臓その他、毒を有する臓器を混入したものと思われます。その犯人が確認されました。一時、船水栄一郎を殺した容疑で、現在、指名手配されている、尾久フサであります。  次に、その証拠が数多く集められましたが、その重要なものをいくつか挙げてみますと、第一に指紋。浜家の玄関のドアのノブ、及び鮟鱇鍋に使われた平鍋及び蓋、更に、ダイニングキッチンのごみ入れに捨てられてあったポリ袋から、それぞれ明確な尾久フサの指紋が発見されました。照合された尾久フサの指紋は、尾久フサの家から多数採取されたものであります。なお、フサの指紋のあったポリ袋からは河豚毒も検出され、フサは鍋に投入した河豚を、そのポリ袋に入れて持ち運んだものと思われます。なお、ポリ袋の出所も判明しました。ポリ袋に印刷された店の名から、そのポリ袋は、台東区橋場の料亭、茶《さ》の市で使われている品であります。  一昨日、つまり、四日の五時頃、フサは茶の市の調理場に現れております。昨日、専従員は茶の市に赴き、フサが挨拶に廻っていたことを突き止めたのですが、当時、フサは船水栄一郎殺しの容疑者だったため、船水殺しに使われたと思われるドライアイスの入手先を追っていて、河豚には気が付かなかったのです。そこで、茶の市を再び捜査しましたが、その結果、茶の市では河豚解禁から、毎日河豚料理を作っていて、フサが現れた日にも調理場には遺棄された河豚の有毒臓器があり、フサがそれをドライアイスと共に容易に持ち出せる状態にあったことが判りました。  最後に、フサの家の鏡台から発見された鍵でありますが、その鍵は船水栄一郎のものではなく、浜元司の玄関の鍵であることが判明いたしました。これらによって、浜元司を殺害した犯人は尾久フサと断定してよいと思われます」  次に、進介が立って、浜元司の家庭事情を説明することになった。海方は捜査会議の間、居睡りをする計画でこの役を進介に押し付けたのである。海方は独得の手管を使い、元司の妻の三枝子から全てを聞き出したのだが、それを見ていた進介に、 「女は全てこうだとは思うなよ。中には俺の嚊《かかあ》のようなのもいる」  と、小声で言った。  海方がどんな気持でいようが、進介は真剣だった。簡潔にしかも遺漏なく捜査を報告しなければならない。 「——浜元司は江東区石島の生まれ、つまり、現在地で生まれました。家は代代氷小売商で元司で四代目です。元司に兄弟はなく、二十五歳のとき現在の三枝子と見合い結婚をしました。元司の父親の代には、店はかなり繁昌し、店先でかき氷やアイスキャンデーを売ったりして相当な産を成したと思われます。しかし、元司の結婚と前後して、各家庭には電気冷蔵庫が普及して売上げは伸びなくなりましたが、浜家の土地は広く、裏にアパートを作ったのでそこからの収入があって生活は今迄と変わりませんでした。  妻の三枝子のことを述べますと、これは多情な女性で、元司と結婚する前に好いた男性がおり、結婚後も元司に隠れて不特定多数の男としばしば情を重ねていたようであります。近所の人の話ですと、元司は妻のことを口にしては愚痴を言うことがあったそうで、妻の背信行為には見て見ぬ振りをしていたようです。二人の間に子供はなく、三枝子は元司のせいにしていますが、実際は三枝子が秘かに愛人の子を堕胎《おろ》し、その影響で不妊となったという噂です。  元司の両親は二人の間に子のないのを心配し、遠縁に当たる男の子を養子にしました。これが現在、浜ビルで喫茶店を開いている浜勝夫であります。勝夫はどういうわけか怠け者で女性にだらしなく、家業の手伝いもせず、十七のとき年上の商売女を家に引きずり込みました。これが知子で、知子は浜家の財産が目的だったと、近所ではもっぱらの評判です」  進介は言葉を切ってちょっと海方の方を見た。目が死んでいる。脳はすでに寝ているらしい。 「一方、元司の両親は若いときの忙しさで無理が祟《たた》ったものか、患うことが多く、勝夫が知子を家に引き入れた頃にはほとんど寝たきりの状態でしたが、三枝子、勝夫、知子は全員老夫婦の看病に手を貸さず、もっぱら元司が二人に手を尽くしていました。そのうち、元司の両親が相次いで死ぬと、三人はそれぞれに財産分けを元司に迫り、元司は仕方なく土地の一部を売り、現在のビルを建てて、それぞれに建物を分譲しました。元司はそれでも代代の氷店を廃業することなく、小さくなった店で商売を続けていたのですが、営業は昔ほどでないといっても一人の切り廻しは大変で、そのうちに今度は自分の体調が思わしくなくなり、最後には親代代続いた店を畳み、その跡を現在ある宅急便の会社に貸すようになった。それが二年前のことです。  次に浜元司の病気ですが、元司は大の美食家で、それも、酒は好き甘いものにも目がないといった質《たち》で、以前から胃が丈夫ではありませんでした。加えて、妻の浮気、両親の死、養子の心配などが重なって、神経的にも参っていたと思われます。夏以降は自分は癌に罹《か》かったのではないかと心配するようになったといいます。たまたま区で行なわれた成人病健康診断に進んで行き、検診を受けたのですが、その結果、胃にポリープが発見され、もっと精密な検査が必要だということで、勝畑病院へ入院し、胃組織の一部を切除しました。その結果、ポリープは悪性ではなく、手術で安全に治療することができると教えられましたが、自分では逆にあくまで癌、医者は自分にだけは癌を隠していると思い込んでしまいました。  それに対しての妻の態度も冷たく、三枝子は元司が入院したことも知りません。元司がいないのを幸いに、テニスクラブの若いコーチと遊び呆《ほう》け、元司が死んだ夜も帰宅せず、朝、荒れた肌で帰って来たほどです。三枝子の無関心は反って元司に疑心を起こさせ、院長は本当のことを妻に教えた。妻は自分の死を知って、安心して男と遊ぶようになったと思い込み、癌ノイローゼが高じて、自分は疑いもない癌だと確信してしまったようです。  つまり、元司は六山代造を初めとする一連の被害者と同じように、この世に絶望している一人でした。しかも、自分が死ぬことによって、不倫の妻、恩知らずの養子と、破廉恥な息子の妻に対し、一度に復讐することのできる立場にいたのです。そして、事実、元司はそれを実行していました。元司は勝畑病院を退院するとその足で、弁護士のもとを訪れ正式な遺言状を作成していました。先程、その弁護士によって、関係者の立ち会う中で遺言状が公表されましたが、元司は自分の全遺産は孤児救済援護団体に寄贈、自分の妻、養子には相続人の廃除をしております。それを知った三枝子や勝夫は逆上して泣きわめき、元司の葬儀をそっちのけにして、早速、遺言の一部無効を求める調停を申し立てることになりました。勝夫は現在、質《たち》の悪い友達の借金を背負わされ自分の店を借金の形《かた》として接収されるといった立場にあり、三枝子の方は遊びの金、主として男に貢いでいたものですが、その借金が積もっていて、心秘かに元司の財産を当てにしていたようであります」  進介の説明が終ると、目黒署の捜査主任が立った。船水栄一郎殺害事件によるその後の捜査報告である。聞き洩らすようなことがあってはならない。進介は海方の隣に戻って、耳を澄ませた。 「——船水栄一郎の死亡原因を申し上げます。死因は強力な毒物による中毒死で体内から有機リン剤が化学的に検出されました。船水の屍体が発見された車の後ろ座席に丸いクッションがありまして、係が現場捜査のときビニール袋に入れて科研へ運び、中の空気を検出したところ、残留した強い毒性を持つガス状の有機リン剤の化合物が発見されました。車は発見当時、ドアと窓が密閉されていましたが、自然に強い毒性を持つガス状の有機リン剤の化合物が車内に発生するとは考えられず、何者かが、故意に毒ガスを車内に持ち込んだものと思われます。科研の担当係の話によると、この毒物は有機リン剤と二酸化炭素の化合物で、一般的には特殊なものですが、有機リン剤は農薬などに使われており、誰でも手に入れることができ、二酸化炭素もドライアイスとして簡単に入手することができます。ただし、それから毒ガスを発生させるにはかなり毒物の専門的知識が必要なわけで、犯行の方法についてはまだかなり研究の時間が必要だそうです。  一方、先にお話のありました浜元司でありますが、四日の五時頃、同じビルの一階で営業している宅急便の会社に顔を出して、二キロのドライアイスを購入しております。店には生まものの運送用に、常時ドライアイスと発泡スチロール製の容器を店に置き、客の便宜を計っており、誰でも簡単にドライアイスを買い求めることができます。店員は浜元司と顔見知りで、元司の料理好きを知っていましたから、何の疑いもなく売ったそうです。  屍体が発見された船水の車からは、元司の指紋も発見されました。これは、車のドアの内外から採取されています。また、死んだ元司のポケットには車のキイが入っていまして、これが、船水の車のキイをコピーしたものでした。元司は何等かの方法でそのキイを手に入れ、そのキイを使って車のドアを開け、車の中に毒ガス発生物質を置いたものと思われますが、それは単に丸いクッションの下に押し込んだだけのようです。なぜなら、クッションのあった座席のカバーが、かなり湿気を含んでおりまして、これはドライアイスによってその部分が冷やされ、水滴を生じたためと思われます。また、屍体が発見されたとき、船水は皮ジャンパーに袖を通そうとした姿でしたが、これは毒物を吸い込んで一時的に寒気を感じたものと思われます。船水はその車が特別気に入っていたようで、車中で夜を明かすこともあったようです」  全て海方が指摘した通りだった。だが、当の海方はびくともしない。横着と自信とを取り違えているとしか思えない。 「最後に、船水と、船水に扼殺された香野阿由美との関係ですが、二人は同じ大学で知り合い、深い関係になり結婚を希望していたのですが、香野家の全部がそれに反対しました。理由は阿由美の父親が興信所に依頼して船水の家を調査させ、家柄が釣り合わぬと言い出したためです。父親は阿由美と手を切らせるため、船水に金を与えております。船水が不相応な車を持っていたのはそのためです。この事情は、二人の退院後、目黒署の警ら部が作った報告書がありますので精しくは申しませんが、担当者の話ですと、阿由美は潜在的にマゾ的な性的願望を持っていて、再び同じ事件を起こす可能性を秘めていたといいます。心中以後の阿由美は香野家に監禁状態でいましたが、事件当日、家人がそれぞれに留守なのを知り、香野家の使用人を騙《だま》して父親の猟銃を持ち出して家を出ました。  阿由美は心中未遂後も、しばしば船水と連絡を取っていたことが判りました。それは文書によるもので、女文字の行間に隠しインキで書かれた手紙が、阿由美の死後、一部が焼却を逃れて部屋から発見されました。それには落ち合う日と場所が指定されていたのです。その手紙の女文字から判断して、通信には第三者の介入があったと見られますが、それが誰であるかは今のところ確認できません」  一渡り事件後の経過が説明されると、活発な質疑が続けられる。それによって、一連の事件がかなり明瞭な形を整えてきた。ずっと無言で耳を傾けていた角山刑事部長は発言が途絶えたところで眉間《みけん》に太い皺《しわ》を立てて、 「すると、もし尾久フサの屍体が発見されたとすると、その犯人もまた殺される立場にあるというのですね。一体、その繰り返しはどこまで続くのですか」  と、言った。三河課長が答えて、 「尾久フサ殺しの犯人が、最初に殺された六山代造であれば、ちょんちょ——いや、事件は終りだろうと言う人がいます」 「死んだ六山にそれができますか」 「六山が死なないうちに罠を仕掛ければ、それが可能になります。六山は大工でしたから宇都宮吊り天井式のものを作ったかも知れない、とその人は言います」 「それで、フサの家に吊り天井が見付かりましたか」 「いや、フサの家に怪しいところはありませんでした。六山の指紋も残っていません」 「吊り天井などと言い出したのは誰ですか」 「特犯の亀——いや、海方さんです」 「なるほど、海方さんは確か、出席していましたね」  海方は進介の隣で隅の壁に寄り掛かり、目を開けたまま寝ていた。進介がそっと海方の腿を突付くと、海方は同じ目をしたままのっそりと立ち上がった。進介は感心した。実に便利な芸を身に付けている。 「海方さん、昨日、尾久フサはこの事件のアンカーだと言いましたね」  と、三河課長が言った。海方は二、三度咳払いして、勿体振った口調で答える。 「左様、鮟鱇ではありません。フサが持ち出したのは河豚です」 「いや、そうではなく、フサはこの事件の最終ランナーではないかと訊いているのです」 「ははあ、よく判っていますよ。それよりも、私が気になっていることは……」  海方はぎょろりと目を動かした。何か難問を探し出そうとしている顔だった。その難問を誰かに押し付け、自分は居睡りの続きをしようとしているに違いない。 「その、気になる、というのは被害者と犯人の順のことじゃないんですか」 「順……そう、筒見順なのですよ」 「筒見は二番目の被害者ですね」 「そう、その筒見の背中には彫物が入っていた」 「そうです。それを見て彫物師を捜した調布署の山下さんが説明していたでしょう。筒見の彫物を入れたのは彫岩という三鷹に住んでいる彫物師でした。聞いていませんでしたか」 「いや、聞いていましたとも、筒見の彫物は四つの戒名と、六山の俗名、そして臆病蕩児。そう、戒名なら位牌。尾久フサの家に位牌はありましたか?」 「……さて」  三河課長は部屋を見廻した。海方は椅子に腰を下ろし、瞬《まばた》きをしなくなった。  南千住署の捜査員が立って尾久フサの電話番号を廻し、待機中の巡査に仏壇を見るように言う。しばらくすると、仏壇には位牌の跡はあるが、位牌は全部なくなっているという答えが戻って来た。  海方はまた立ち上がって、 「人の位牌など欲しがる奴はいねえですから、フサが持って家を出たのでしょう。位牌を持って行くところというと、まず、坊主のところかな」  とだけ言って元の姿に戻った。 「尾久家の寺はどこですか?」  と、三河が言った。  南千住署の捜査員がまたあちこちに電話をして、尾久家の菩提寺は下谷にある大愚《だいぐ》寺であることを突き詰めた。しかし、フサは大愚寺に立ち廻った形跡はなかった。大愚寺の住職は、フサが指名手配されていることはテレビのニュース番組で知り、心を痛めていたのでフサが立ち寄ればすぐに警察へ連絡しようと思っていた、と言った。  海方は半睡で聞いていたようで、ふらりと立つと、 「だから、墓にでも置いたかな」  と、言った。  捜査員は再び大愚寺へ電話を掛ける。  海方の予想は当たっていた。大愚寺の住職が念のために墓地へ行って見ると、尾久家の墓石の前に、三つの位牌がきちんと並べられていたという。その一つは先祖代代と書かれた位牌、あとの二つはフサの両親の位牌だった。  海方はそれも聞いていたらしい。 「亭主の位牌がありませんか」 「位牌は三つだけだと言っていましたよ」  と、捜査員が答える。 「両親の位牌があって、亭主のがないか。フサの亭主は入婿でしたな。亭主の寺にでも持って行ったか。亭主は確か、御蔵島《みくらじま》だ」 「御蔵島……」  捜査員はすぐ御蔵島の村役場へ電話を入れる。幸い残業中の職員がいた。  尾久フサの夫は旧姓を丸屋三郎といった。その丸屋家の菩提寺はすぐに判った。慈光寺という浄土宗の寺だが、フサは寺にも墓地にも来ていないという。  刑事部長が海方の方をちらちら見る。進介が海方の膝を突付いて声を掛けた。 「位牌は墓にも置いてありません」  海方は今度は立ちもせず、 「位牌なら、位牌堂」  とだけ言った。  再び慈光寺に電話が掛け直される。その結果、本堂裏の位牌堂から見慣れぬ位牌が発見された。研真東徳信士。裏には俗名尾久三郎。すぐ、大愚寺に戒名が照会され、尾久三郎の位牌であることが判った。 「尾久フサは御蔵島にいる……」  捜査本部は色めき立った。     四  捜査会議が解散し、特犯の部屋に戻ると、職員が進介に言った。 「さっき、乙羽さんという方から電話がありました。今、会議中だというと、急用でないからと電話を切りましたが」  海方はそれを聞いて、ぼきっと指を鳴らした。 「よし、決めよう、乙羽佐織を御蔵島へ連れて行こう」 「何ですって?」 「御蔵島は距離にしたら大したことはねえが、南国の孤島だ。原生林と野鳥の宝庫だ。海は清く空気が爽やかだ。佐織と行ってみろ。応えられねえぞ。しかも、官費だ」 「しかし、尾久フサが……」  海方は声を低くした。 「だからさ、俺の考えじゃ、フサはもう生きてはいまい。事件の第一走者、六山代造に殺されている」 「六山はフサを殺すことができるんですか」 「多分、薬だな」 「薬?」 「覚えているかな。フサは喘息の治療を受けずに退院した。だが、喘息の発作が起きたときの用意に頓服を貰っている。六山は病院でそれを知り、頓服薬を毒薬に掏《す》り替える。御蔵島は東京と気候が違う。きっと、今頃は発作を起こし、その薬を飲んだと思う」 「六山は毒薬をどこから手に入れたんですか」 「病院の薬局から盗み出したのさ」 「でも、フサの屍体はまだ見付かっていませんよ」 「だからいいんだ。宿で死んだらすぐ警察に報らせがあるはずだから、外で死んだに違いねえ。とすると、夜になってからじゃとても見付かるまい。明日、夜明けと同時にヘリで飛び、向こうの捜査隊に加わろう。なに、狭い島だから、フサの屍体ならすぐ見付かるさ。屍体の傍には勝畑病院の薬袋《やくたい》があって、その中に毒薬が発見される。薬袋には六山の指紋がちゃんと残っていて、ちょんちょん、千秋楽、お終《しま》いさ。まず、明日の昼迄には全部が片付く」 「……そううまい工合に行きますか」 「行く。本部への報告は電話で済ませ、屍体だけをヘリに乗せて、俺達は島に残る。後は休暇さ。考えてもみや。この事件のお蔭で、この四日間は夜も碌《ろく》に寝ていられなかった。今、三河さんに掛け合って来てやる。無論、君達と同じ宿だなどと野暮なことは言わない。俺は酒と肴《さかな》がありゃ何もいらない。君達は好きに島を歩くなり、佐織と話すなり自由だ」 「しかし、乙羽さんを連れて行く理由がありませんよ」 「いや、ちゃんと、ある。俺達は尾久フサの顔を知らねえ。フサは一度も亭主の里に行かなかったから、御蔵島でも同じだと思う。だから、佐織はフサの屍体を確認するために連れて行くのだ。こうしたチャンスは、まずないな」 「……乙羽さんが承知するでしょうか」 「否だと言ったら、逮捕状を出す」 「そんな、乱暴な……」 「乱暴じゃない。もしかすると、フサはまだ喘息の発作が起こらず、俺達の手で助かるかも知れねえ、これは人命に関する問題だ。ぜひ、承知させろ。俺は御蔵島行きの人選が決まらねえうち、三河さんに交渉して来る」  海方はまめまめしく部屋を出て行った。  仕事に便乗して佐織と旅に出ることに疚《やま》しさを感じないわけにはいかない。しかし、海方が強く主張するので、進介は佐織の自宅のダイヤルを廻した。佐織はすぐ出た。 「さっきは失礼しました。事件は大詰めに近付いて、忙しかった」 「だったら、もういいのよ」  佐織は素っ気なく言った。 「いや、実は僕の方から頼みがある。明日、朝一番で御蔵島へ行ってもらいたいんだ」 「……御蔵島?」 「そう。まだ、正式には発表されないんで、ここだけの話だが、僕達が追っている尾久フサが御蔵島へ立廻った形跡なんだ。ところが、僕達はフサと面識がない。そこで、フサを知っている君に同行してもらいたい」 「そんな……こっちの都合も聞かず、明日の一番なんて、無理よ」 「これは私事じゃない。ぜひ協力してくれ」 「困るわ……」 「じゃ、さっきの電話は、何だった。休日に僕と逢いたいということじゃなかったのか」 「だから、もういいと言ったでしょう。あなたが忙しそうだったから、もう、約束してしまったわ」 「誰と?」 「院長とです。でも、変に考えないで」 「考えないでと言われても、無理だ」 「院長はあれ以来、それどころじゃないんですよ。昼夜の区別なく警察や報道関係者に追い廻されているんですよ。中にはまるで院長が犯人のようなことを言う嫌がらせ電話も多くて、気味の悪い話ですから入院患者は他の病院へ移ってしまうし、通院患者もほとんど来なくなりました。院長は精神的にもすっかり打撃を受けて、今、休養が必要なんです」 「……週末には蓼科の別荘へ行くと言っていたね」 「…………」 「別荘はどこにあるんです」 「お願いですから、これ以上、わたし達を追わないで」 「しかし、フサの確認には君が必要なんだ」 「わたしに限ったことではないでしょう。別の人を頼んで」 「僕が、君でないと困る」 「……そうだったの。あなたも段段考え方がボスに似てきたわね」 「いや……そう言い出したのはボスの方だ」 「何でも構わないけど、明日のことは堪忍して」  佐織は進介の返事も待たずに電話を切った。  海方が口笛でも吹きそうな表情で部屋に戻って来た。 「俺の方は上首尾だ。一課の秋月君も一緒に決まった」 「……僕は、見事に振られましたよ」 「何だと。じゃあ、詰まらねえじゃあないか」 「仕方がありません」 「ははあ。多少、引け目があったな。それで、切り込みが甘くなった」  多少どころではない。かなり後ろめたく、佐織からボスに似て来たと言われたときには、顔から火の出る思いだった。 「こういうことは、楽しそうに切り出さねえといけない。今度から気を付けるんだな」  その夜、進介は四日ぶりでアパートに帰った。十二時過ぎ、翌日の仕度をして湯に入っていると、電話が鳴っているような気がした。すぐ、浴室を出たが、受話器を取る前に呼出音が止まった。湯の音で気付くのが遅かったようだ。電話はそれきり鳴らなかった。  もしかすると、佐織かも知れない。すぐ、ダイヤルを廻したが、佐織の電話には誰も出なかった。  四時間ほど寝て、すぐ出勤。  無精で家へ帰らず、仮眠室で寝ている海方を起こし、屋上に出る。  白み始めた空に半月がくっきりと浮んでいる。それでなくとも空へ飛び立ちたくなるような晴天だった。  特犯の海方と進介、それに一課の秋月と鑑識課の笠村巡査部長と追跡犬ハチが加わった。操縦士が二人。全員を乗せた警視庁航空隊のベル式二二二型八人乗り双発ヘリコプターは、オレンジ色に染まり始めた地平線に向かって、御蔵島へと飛び立った。   七章 変調円舞曲     一  晩秋の太陽はみるみる大空に昇っていく。空と海の色が燦爛《さんらん》と変化を続け、海面に湧き立つ雲が桜色に染まっている。  警視庁の双発ヘリは一気に南下、三浦半島、房総を過ごすと、すぐ大島が見えてきた。  海方は窓の外を眺めていたが、それも日の出のうちで、すぐいびきを掻き始める。海方のいびきは特犯の部屋では音がでないという特徴があるらしい。  目差す御蔵島は三宅島の南二十キロ。直径五キロほどの丸い小島だ。進介が出発する前に調べた案内書によると、伊豆七島に伝説があり、神々はこの島を蔵として使っていたのだという。全島の七十パーセントが原生林、上質のツゲ材が江戸時代から櫛などに使われていた。島は小さくとも世界一の大断崖が有名だ。  東京から二百キロだが、飛行機では一|跨《また》ぎという感じだ。三宅島の雄山、海岸の一周道路が見えると、隣りが御蔵島だ。山を包み込む原生林の中に、ガラスの破片を落としたような池がある。  ヘリコプターは予定通り、島の北にある村役場のグラウンドへ着陸した。  すぐ、制服の巡査や役場の職員が捜査隊を出迎える。糸川という眼鏡を掛けた中年の男が御蔵島村の巡査で、肩から無線機をぶら下げている。糸川巡査は三宅島村警察から応援が到着して今、手分けをして捜査に出たところだ、と海方に報告した。 「何しろ、こうした事件が島に持ち込まれるというのは、何しろ前代未聞のことでして、昨夜から天手古舞《てんてこま》いであります」  と、糸川巡査が言った。見ると厚い眼鏡の奥の実直そうな目が赤くなっている。 「なんの、東京にでもこんなのは滅多に起こりませんですよ」  海方は悔みでも言うような神妙な顔をした。  そのとき、鑑識課の笠村巡査部長と、二人の操縦士の足元で静かにしていた警察犬のハチが、急に鼻をひくひく動かし始めた。笠村はそれを見ると食指を舐《な》め、空に突き立てた。 「これは、どの方向ですか?」  笠村は山と反対の方向を指差した。 「北です。徳利根の断崖です」  と、糸川が答えた。  その間にもハチの動きは忙《せわ》しくなり地面を嗅ぎ廻る。笠村はポケットからポリ袋を取り出し、袋の口を少し開いてハチの鼻に近付けた。袋の中には布の切れ端が入っている。ハチは袋に鼻を当て、一声わんと言った。 「早いですよ。もう何かを嗅ぎ当てたようです」  笠村が言うと、ハチは急に勇んで駈け出そうとした。笠村の手綱がぴんと引かれる。 「じゃ、出発します」  と、笠村はハチに引きずられるように駈け出す。すぐ、島の巡査と職員がその後を追う。海方に言われて秋月もそれに続く。 「……到着したばかりだというのに、信じられません」  と、残った糸川が感心したように言った。海方は自慢気で、 「さすが、名犬ハチです。あれが来ていればもう大丈夫。すぐ、フサを嗅ぎ付けてしまいますよ。何しろ何度も総監賞をもらっている足跡追及犬ですからな。どうです、笠村さんの顔もハチに似ていたでしょう」 「なるほど。発見は早いに越したがありません」 「それはそうですがな。手配の尾久フサが、ピストルを持って暴れている、というのでもねえですから、まず、ぼちぼち時が解決するでしょう」 「そうでしょうか」 「三宅島も御蔵島も大変に治安がよろしい。あなた達のお力なのですよ。私達はただ一応の形として参りましただけで、どうぞお気遣いなく」 「はあ」 「……ところで、私達は朝食がまだなのです。お弁当を使いたいのですが」 「や、これは気付きませんでした。では、役場の応接室をお使い下さい」  海方は進介の方を見て、油断のならない顔になった。 「じゃ、小湊君。弁当を運んでくれたまえ」 「迂闊《うかつ》でした、忘れて来ました」  進介は咄嗟《とつさ》に嘘が出た。無意識に海方に乗せられたのだ。 「そりゃ困りました。まあ、忙しかったから無理はありません。が、腹が減っては戦《いくさ》ができません」 「朝食でしたら、すぐ支度させましょう」  と、糸川巡査が言った。 「それは、気の毒で」 「いや、大したことはできませんが、すぐ、用意します」 「じゃ、お言葉に甘えますか。何もいりません。旅館に行ってもいいが、旅館はどこも東京の味になってしまったでしょう」 「東京の方には却《かえ》って新鮮さがないのですね」 「そうですとも。いや、ヘリで多少酔い加減なので多くは食べられません。ただ、御蔵島の味噌と魚の味をしめたら、他のものは口にできなくなった、という人の話を聞いたことがあります。まあ、朝から刺身でもないでしょうから、黒鯛の味噌汁に地玉子、ここは良い牧場があって、チーズが絶品だといいますから、それを少しだけ添えてもらいまして、あとは小魚の干物、海苔には海胆《うに》でも乗せてもらい、香の物はなるべく塩気を控え目に願いましょうか」 「判りました。少少お待ち下さい」  海方と進介、一課の秋月、それに二人の操縦士は役場に通され、村長を初め職員の挨拶を受けてから応接室に通される。すぐ、女子職員が朝食の準備に取り掛かる気配がする。  糸川巡査が白い布に包んだ物を持って会議室へ入って来た。包みを解くと黒漆に金色の文字で書かれた位牌が出て来た。 「慈光寺の位牌堂に置き去られていた位牌がこれです」  と、糸川巡査が説明した。  表面には研真東徳信士という漆の文字が並んでいた。裏を返すと俗名と行年が記されている。尾久三郎の位牌だった。 「慈光寺の住職の話ですと、寺には鍵というものがありません。ですから、いつ誰がどうやって位牌堂にこれを持ち込んだか、判らないということです」 「いや、鍵がないというのは何という素晴らしいことでしょう。ここは正に理想郷ではありませんか。私も日頃、このような島に住みたいと思っているのですよ」 「しかし、捜査本部からの連絡がなければ、住職は生涯これに気付かなかったかも知れません」 「そういうところがおおらかで私は好きですね。じゃ、秋月君、これを保管して、本部に戻ったらすぐ指紋係に渡すように」  糸川巡査は包みを元通りにして秋月に手渡した。  そこへ、女子職員の手で、次次に朝食が運ばれる。職員はかなり律義に海方の注文に応じたようだ。 「尾久フサの夫、丸屋三郎の実家は御蔵島港で漁業をしています」  と、糸川が言った。 「現在、長男が家を襲《つ》いでいますが、三郎は尾久家の婿となってからはほとんど島に来たことはなく、丸屋の方でも尾久の家へ行ったのは三郎の葬式ぐらいだったということです」 「うん、うん」  海方はお座なりに返事をする。すっかり食事に心を奪われているのだ。 「まあ、フサは良い人なのですが、何しろ向こうは商家のお嬢さん育ち、丸屋は小島の漁師ですから、何かにつけて話が合わなかったのでしょう」 「うん、うん」 「丸屋家の次男も東京で暮しています。次男の方はあなた、子沢山でしてね。毎年、夏になると団体で島に乗り込んで来まして、何週間も遊んで真っ黒になって帰って行きますよ。孫が十人からいますが、子の多いというのは大したもので、その内の一人が大層歌がうまい上に可愛らしい子で歌手になりたがっていますが、東京ではそういう子が多いんでしょうね」 「うん、うん」 「次男は夏に限らずよく島へ来ますが、尾久家へは足を向けたことがないそうで、フサの顔も碌《ろく》に覚えてはいないようです。もっとも、親しくしている親戚に今度のような事件を起こしたフサのような人が出れば、若い子の出世の妨げになるかも知れず、全く人生とは判らないものですね」 「うん、うん」 「いかがですか黒鯛の味噌汁は?」 「うん、いや、事件を忘れてしまうほど結構です。もし、頭《かしら》が残っていたら」 「ハチに食べさせますか」 「いや、ハチは総監賞を取っていますから鯛でも頭は食べません。肉ならサーロインを食べます。鯛の頭は内の嚊《かかあ》に食べさせます」  そのとき、糸川が持っている無線機が鳴った。糸川は急いで受話器を耳に当てる。海方はそれを見て、そっと進介に言った。 「どうやら、ハチはもう見付けたらしいの。しかし、俺達をゆっくりさせねえとは、矢張り駄犬だ」     二  ハチは村役場のグラウンドから、真っすぐに徳利根の断崖へ、一時、東にある障子根の周辺を駈け廻っていたが、すぐ元の徳利根に戻って、海を見下ろす岩陰でのめるような姿で倒れているフサを発見したという。御蔵島に着いてから、三十分とかからなかった。  海方は早速、捜査本部へ一報を入れ、すぐ現場へ向かったが、道はなかなか険しい。 「何だ、こりゃ。まるで山歩きだ」  と、海方がこぼす通り、山をそっくり海に沈めて、山頂が海面に残ったのが御蔵島なのだ。  だが、道程《みちのり》はさほど遠くはなく、林を抜けるとすぐ海が見え、壮大な断崖の上に出た。岩場に捜査員の姿が群れ、少し離れた場所で笠村とハチが良い気持そうに海を眺めていた。ハチは海方の顔を見ると、わんと吠えた。 「おや、海方さん。陰でハチの悪口を言いましたね」  と笠村が言った。 「いや……あなた達の息がぴったりで、顔まで似ているとは言いましたが」 「それならいいんですが、今日のハチはとても敏感なんです。下手に悪く言おうものなら咬み付きます」 「そりゃ、どうも。今日はお手柄でしたな。おや、ハチさんのコートは純毛ですな。ションベールそれともレビオンですか」  ハチがまたわんと言った。 「駄目ですよ海方さん。犬には煽《おだ》てが効きません」  海方は首を竦《すく》めて現場の方に歩を進める。  屍体を一目見て、進介はフサが大掛かりな捜査網に掛からなかった理由が判った。海方も思わず、おや、これがと言ったほどで、フサは男装だったのだ。  グレイの背広に紺の縞のネクタイを締め、フサは髮を短く刈り上げていた。年寄りは子供に還ると言われるが、子供と同様、年寄りは衣服だけで簡単に性別が変えられるようだ。  秋月が海方の傍に来て言った。 「背広のネームは尾久とあります。死んだ主人のを着て来たのでしょう」 「なるほどな。フサが死んだのはいつごろだ」 「医者はまだ来ていませんが、十二時間以上は経《た》っています」  海方はこごんで屍体に手を触れた。 「多分、華麗な夕日を見ながら死んだ、ってところだな。外傷はなさそうだから、毒物だろう。遺留品は?」  秋月は岩の上に置かれた小型の旅行鞄を指差した。横にポリ袋が並んでいる。 「あの鞄です。中はまだ改めていません。それから、屍体の傍に水筒と、屍体の下に勝畑病院の薬袋《やくたい》が落ちていました」 「それそれ。それさえあればしめこのウサギさ。その薬袋には毒が入っていて、六山代造の指紋がある。それを本部に届ければ、ちょんちょん千秋楽だ」  そのうち、島の開業医が現場へ到着する。屍体は折返しヘリで東京へ送り返される手筈になっているので、医者は被害者の死を確認するだけだ。医者は海方が持って来た手配書を見て、ほくろなどの特徴から屍体はフサに違いないと言った。  被害者の遺留品の検索が続けられたが、それ以上の品は発見されず、屍体は担架に乗せられて役場のグラウンドに運び移される。海方が上機嫌で再び捜査本部へ連絡する。 「直ちに屍体と遺留品を運べだと。角山部長は相変らず人使いが荒えの。秋月君、ご苦労だがフサに付いて一足先に帰ってくれ。俺と小湊君は残ってフサの足取りを調べなきゃならねえ」  というので、屍体をヘリに運び、秋月がそれに付き添い、笠村とハチも同乗してヘリは役場のグラウンドを飛び立った。  ヘリを見送っていた海方はふうっと太い息を吐いた。 「何が何でも、これで千秋楽だ。しかし、今度の事件は久し振りに疲れたの」 「僕も正直、疲れました」  と、進介が言った。 「だが、これからは俺達の天下だ。ゆっくりと静養させてもらう」  海方は傍にいる糸川に言った。 「お聞きの通り、しばらく島に投宿したいのですがね。良い宿がありますか」 「……旅館は島に一軒、あと、民宿が三軒ほどありますが」 「それそれ、民宿に限る。刑事は薄給での」 「だったら、役場の宿直室をご利用になったらどうです。職員が泊まるのは観光客の多い夏だけで、今は空《あ》いておりますよ」 「ほう、そんな手がありますか。いや、宿直室、結構ですよ」 「相談してみましょう」 「その前に、島への交通は?」 「三宅島の阿古港から月水金土の四日間、村営船が一往復するだけです」 「気に入りました。滅多に呼び返されたりしてはたまりませんからな。尾久フサも、その船でここに渡ったのでしょう」 「だと思います」 「ご苦労だが、それを確かめてもらいたいのです。ついでに東京から三宅島までフサは船か飛行機を利用したでしょうから、その方も」 「判りました」  海方は捜査を糸川へ押し付け、役場の宿直室へ。部屋は清潔で思ったより居心地が良さそうだった。朝食の用意をしてくれた女子職員が、小まめに茶や浴衣を運んで来る。海方はすっかりだらけた顔になり、 「やあ、御蔵島がこんなに良いとこだとは思わなかった。島の人達は親切だし女性は美人だ」  と、愛敬を振り撒く。 「あら、美人だなんて。明日はお休みですから、黒崎高尾にでもご案内しましょうか」 「おお、聞いていますよ。世界一の断崖だそうですな」 「ついでに、御代《みよ》ガ池に廻るといいでしょう」 「世界一、神秘的な池だと聞いたことがあります」 「隣にシャワー室があります」 「御蔵島の水も世界一だそうですね。その水が浴びられるとは極楽へ来たのと同じです」  シャワーを浴びて床を延べ、ごろりと横になると海方はすぐ動かなくなった。自分だけ起きていても用はなくなった。進介も横になると、一瞬、佐織の顔が頭に泛《うか》んだが、すぐ白い霧に包まれてしまった。     三 「……刑事さん、刑事さん」  揺り動かされて、進介ははっと目を開いた。若い女性の顔が傍にある。一瞬、自分がどんな立場にあるか判らなかった。 「東京の捜査本部から電話が入っています」  役場の女子職員は宿直室の隅に置いてある電話を指差した。 「今、切り替えますから、受話器を外して待っていて下さい」  進介が起き直るのを見て、女子職員はいなくなった。進介が受話器を取ろうとすると、海方の手が伸びて来て、進介の腕をつかんだ。 「……俺だったら、捜査中だと言え」 「判りました」  受話器を耳に当てると、すぐ三河課長の声が聞こえる。海方も耳を寄せて来る。 「……亀さんはいますか」 「ここにはいません。今、フサの足取りを追っています」 「そうですか。じゃ、帰って来たら伝えてもらいましょう。亀さんの言ったことは間違っていました」 「……どう、違うんですか」 「犯人はフサの家に忍び込んで、喘息発作が起きたとき飲む頓服薬と毒薬とを掏《す》り替えた。亀さんはフサがその毒を飲んで死ぬだろうと言いましたが、そこまでは当たっていました」 「はあ……」 「さっき、ヘリで送られて来たフサの遺留品の一つ、勝畑病院の薬袋の中身は有機リン系の毒物だということが判りましたから。しかし、その後がいけません。亀さんはその薬袋に六山代造の指紋が残っていて、六山がフサ殺しの犯人だということが証明され、ちょんちょんだと言ったのを覚えているでしょう」 「ええ……」 「ところが、薬袋には六山の指紋はありませんでしたよ。フサの指紋の他に、もう一種類別の指紋がありましたが、六山のではない」 「すると?」 「勝畑病院の薬剤師のかも知れない。六山は自分の指紋を残さないように仕事をしたとも考えられますが、六山は最初に死んだ人間でしょう。自分が捕まることはないので、そんな面倒なことをするとは思えません。今、指紋係が勝畑病院へ、薬剤師の指紋を取りに行っていますが、事件はそれが解決するまでは、ちょんちょんではないのです」 「判りました」 「ですから、そこに待機していて、いつでも動けるよう準備していて下さい。亀さんにお酒など飲ませないようにね」 「承知しました」  三河課長は電話を切った。  進介は時計を見た。九時。一時間寝たことになるが、眠りが一気に駈け抜けた感じで、寝たという実感がない。 「……しかし、俺はもう嫌《や》だ。すっかり飽きた。お仕舞いなんだ」  海方は再び床の上にごろりと倒れる。進介は気になって再び寝る気がしなくなった。  二十分ばかり後、また三河から電話が入った。 「亀さんはいますか」  同じようなことを言う。進介の口が自然に動いた。 「まだ、帰りません」 「弱ったな。すぐ、見付けて、本部に帰って来て下さい」 「……何かあったんですか」 「六山代造が死ぬときに持っていた鍵が気になりだしたんです」  六山の鍵は数少ない遺留品の一つだった。六山はそれを無造作にズボンのポケットへ入れていた。 「その鍵は証拠品の一つとして本部に保管してあります。六山が住んでいたアパートの管理人は、入居者が変わる毎に、鍵を新しくすることになっているので、その鍵は必要でなくなったので、鍵はそのままここにあります」 「六山の鍵がどうして気になったんですか」 「もしかして、その鍵も六山が住んでいた部屋の錠に合わないかも知れない。そう思ったからですよ」 「だって、それは六山のポケットにあったんでしょう」 「六山のポケットにあったから、六山の鍵だというのは先入観だったことに気付いたのです。それで、管理人のところに電話を掛けると、良い塩梅《あんばい》にまだ新しい入居者が決まっていないと言う。それで、一課の人にその鍵を持たせて南砂のアパートに行ってもらった。その返事が来ましてね。私が疑った通りでした。六山が持っていた鍵は、六山のアパートのものじゃなかったんです」 「とすると、何の鍵ですか」 「そりゃもう、尾久フサの家の鍵に決まっている。六山はフサから渡された鍵でフサの家に入り、フサを殺す手筈を整えた、亀さんならそう言うでしょうが、私は少少疑い深い人間だ」 「……実際に、確かめたんですね」 「そう。その結果が、今、判りました。フサの家のどのドアにも、六山が持っていた鍵は一致しませんでしたよ」 「じゃ……その鍵は」 「私には目当てが付いた。あなたにも付くでしょう。同じタイプですからね。フサが自分の鍵を渡したのは六山ではなかった。別の人間です。その人間がフサの家に忍び込んでコップやドアに指紋を残し、フサの薬袋にも指紋を付けたのです」 「すると、事件に加わったのは八人?」 「まだ増えるかも知れない。今、勝畑病院のカルテを片端から洗い直し、怪しい人物の割り出しを急いでいます。だから、本部は物凄く忙しくなって、亀の手も借りたい」  進介の横で、海方が櫓《ろ》を漕ぐ真似をした。 「しかし……御蔵島は村営船が一日置きに一往復するだけで」 「それなら、大丈夫。ちゃんと調べて電話をしています。船は三宅島の阿古港を八時三十分出港。一時間の航行ですから、九時半には御蔵島へ着く。そこを今から出れば、その船に間に合うでしょう。三宅島からは十一時四十五分発の飛行機があります。それに乗ると、東京着は十二時三十分。判りましたか」  今度は海方が両腕を水平にしてゆらゆらさせた。 「……海は時化《しけ》模様です。船が出るかどうか」 「そこに、亀さんがいますね」 「い……いえ」 「だったら、小湊君の今の発想は亀さんに似ていますよ。その後は御蔵島が噴火したなどと言いそうです。だが、だめです。そんなこともあろうと思って、今、この電話で役場のお嬢さんにそちらの天候を聞いたばかりです。海は鏡みたいで空は飛行機日和ですってね。亀さんが捕まらなければ、あなた一人でも帰っていらっしゃい」 「判りました。泳いででも帰ります」  三河は電話を切った。  海方は今迄の元気が抜けてしまった。 「……一体、いつになったら、ちょんちょんなんだ?」 「海方さんはフサの足取捜査中で捕まらなかったことにします。僕一人で本部に帰ります。寝ていて下さい」 「いや、俺がいねえと矢張り駄目だ。ここへ来たのは間違いだったよ。本部にいれば、今頃は全部終っていたはずだ」  自信だけは変わらない。  早速、御蔵島港へ。  定期船には間に合ったが、十五分も乗ると、今度は本当に海が荒れ始めた。海方はすぐ蒼白になって、息も絶え絶えに船端にしがみ付く。 「……こりゃ、さっきの罰が当たったかの」  海が荒れに荒れた上、阿古港へ着く迄、二時間も掛かった。  進介はふらふらの海方を担ぐようにして車に運び、空港へ急がせる。  飛行機の発つわずかな隙に、三宅島村警察へ電話を入れると、尾久フサの足取りが判った。  フサは「荒川三郎」という架空の名で、三宅島のツアーに加わり、途中から団体を離れて六日の朝、定期船で御蔵島に渡ったという。旅行社の添乗員は最後迄、フサを男だと思い込み、フサの御蔵島行きを疑わず面倒を見てやっていたそうだ。  フサは御蔵島の旅館に予約していた。それによって、フサは自分の死地を島に選んだわけではなく、夫三郎の位牌を三郎の生地に戻したかったのが、島に来た目的だということが判った。  飛行機は予定の時刻に飛び立ったが、六十四人乗りのYS11機は思い切って揺れた。一時は機体がめりめりと引き裂かれそうに鳴り、進介も二人はもう駄目かなと観念したほどだ。  それでも、羽田空港着は予定の時刻を五秒と狂わなかったが、海方は半死半生の有様だった。  海方をロビーに休ませ、進介は取りあえず捜査本部に連絡する。 「やあ、ご苦労様。亀さんは?」  と、三河課長が言った。何か前とは調子が違う。ずっと落着いている感じだった。 「海方さんも一緒です。しかし、海と空が大荒れでしたので、海方さんはちょっと動けそうにもありません」 「そうだったねえ。あの人は船に弱かったんですよ。じゃあ、無理しなくともよかった。事件はちょんちょんです。今度こそ千秋楽になってしまいましたから」  意外な言葉だった。進介は耳を疑った。 「今、終ったところです。フサの家と、フサの薬袋に残っていた指紋から犯人が割り出されました。所轄署に連絡したところ、署員がその家に駈け付け、つい、今しがた犯人の屍体を発見しました。亀さんの言った通りでした。将棋倒しの両端が、その犯人で見事につながったのです。これ以上、もう被害者は出ないでしょう」 「一体、その犯人は誰だったんですか」 「それも勝畑病院に関係のある人間、と言って、今度は患者じゃあない。勝畑幸一、つまり、勝畑院長だったのです」 「えっ?」 「意外ですか。私も意外だった。でも、尾久フサの応接室のコップとドアに残っていた指紋は、間違いなく勝畑のものでしたよ。ええ、ノブの両側に、ご丁寧に右と左の手の指が全部揃ってね。そんなわけで私もこれから蓼科まで行かなきゃなりません」 「蓼科……院長の別荘ですね」 「そうです。じゃ、亀さんに無理しないよう言って下さい。夕方、捜査会議が開かれることになっていますが、それも無理にとは言いません。事件は終ったのですから。小湊君は亀さんをよろしく頼みましたよ」 「ちょっと待って下さい」  進介の頭に佐織の顔がかすめたのだ。院長が蓼科にいたとすると、当然、佐織も一緒だったはずだ。進介は三河から蓼科の別荘の電話番号を聞いた。  海方に三河の話を告げると、恐い顔になって両指を組み合わせた。指を曲げるのだが、いつもの骨の音がしない。骨まで瀕死の状態になってしまったようだ。しかし、気だけはまだ参らず、 「……俺がいねえと絶対に駄目だ。パトカーを呼べ。蓼科へ行く」  と、蚊の鳴くような声で言い、尻の方から無理に立とうとした。     四  海方と進介を乗せたパトカーは、サイレンを鳴らして環状八号線を走り抜け、高井戸で中央高速道路に乗る。  進介は車でサイドイッチを食べたが、海方は食欲どころではない。気付け薬だというので、進介はサンドイッチを買うときポケットウィスキーを海方に買って与えたのだが、それが逆効果になった。ポケット瓶を空けても容態は良くなるどころか目眩《めまい》と共に頭痛と耳鳴りが襲い、顔に赤と青との斑点が混じりだす始末だった。  中央高速に入って百七十キロ、諏訪ICで降りて蓼科まで十キロ。  紺青の空は冴えかえり、寒さが爽快だった。東に八ケ岳連峰、北に蓼科山、西には霧ケ峰から北・中央アルプスが次次と見え隠れする。暗紫色の山肌、ハイマツの濃緑、紅葉の緋。  勝畑の別荘、樹洋荘はカラマツ林の中にあった。  山小舎風の二階建てで、屋根は片方に急斜し、丸い柱で支えられている。建物の前には黄色いロープが張り囲《めぐ》らされ、木立の間に警察の車が何台も見える。  車に気付いて、建物の前にいた一課の秋月が近寄って来た。進介が車から海方を抱き降ろすのを見て、秋月はびっくりしたように言った。 「こりゃ……ひどいや。海方さん、大丈夫ですか?」 「まるで大丈夫でねえの。だが、これもお国のためだ」  三河課長も気付いて駈けて来る。 「亀さん、今頃は島娘と踊っていると思っていましたよ」 「うう……」  少し喋るとしばらくは声が出ないようだ。寿命が尽きる前の乾電池みたいだった。 「だから、電話で言ったでしょう。無理に来なくともいいですと」  と、三河はむしろ迷惑そうな顔をした。 「御蔵島から送られて来たフサの薬袋から、勝畑院長の指紋が採取されたのです。すぐ、県警に連絡してこの別荘を調べてもらうと、浴室の中に勝畑の屍体がありました。まあ、かなり変わった死に方ですから、後で現場をご覧なさい」 「どうして勝畑の指紋だと判ったのですか」  と、進介が訊いた。 「亀さんのお蔭です。亀さんは最初六山代造が殺された日、すぐ勝畑病院へ行って、鑑識係が撮影した六山のポラロイド写真を勝畑に見せたでしょう」 「うう……そのときに付いた指紋だな」  と、海方が言った。 「そうです。とにかく、もう一人の被害者が出そうだというので、事件全部の証拠品を徹底的に洗い直したのです。その結果、勝畑が浮び上がったのです。勝畑は尾久フサの家へも行っていました」 「うう……」  と、海方が言った。進介が代わって訊いた。 「フサの家に同じ指紋があったのですか」 「その通り、フサの家の応接室に残っていた二つのコップね。その一つから採取された正体不明の人物の指紋も、勝畑のものだったのですよ」 「指紋の他にも証拠があったようですね」 「そうそう。それを今、鑑識さんが確認しているところです」  三河は玄関の方へうながした。進介は海方に肩を貸してその場所に行くと、紺地の作業服の鑑識係が、玄関のドアに鍵を出し入れしているところだった。 「……間違いありません。この錠はこの鍵にぴったりです」  しばらくすると、鑑識係はそう言って作業を中止した。三河が海方を見た。 「ご覧の通りです。この鍵は死んだ六山代造のポケットにあった品。この鍵では尾久フサの家のどのドアも開きませんでしたが、ご覧のように勝畑の別荘の玄関のドアとぴったりです」 「うう……」 「亀さんの言う、将棋倒しの駒は、六山、筒見、一圓、阿由美、船水、浜、フサ、そして勝畑の順に倒れ、勝畑はどうやら六山の罠で殺されたようです。つまり、生きているうちでのアンカーはフサではなく、勝畑だったのです」 「うう……」 「ですから、この事件もやっとちょんちょんなのですよ。亀さんご苦労様。大部、痛んでいる顔をしていますから、もう引き取って結構です。それとも、現場をご覧になりますか」 「うん……」 「そりゃ、熱心です。秋月君、亀さんを案内して下さい」  秋月が傍に来て海方に説明する。 「県警の係が、最初この別荘に来たときには、玄関の鍵が閉まっていて電気のメーターも止まっていたそうです。本部から勝畑が殺されている疑いがあると連絡して来たので、ベランダから入ろうとして裏に廻って見たのですが、ベランダは崖に突き出ていて手も掛からない。ベランダからは家に入れないので、仕方なく横の小窓のガラスを切って、ねじ込み錠を外して中に入ったのです。家の中は真っ暗で、スイッチを入れても電灯がつきません。調べると、安全器のヒューズが切れていて別荘は閉められた状態でした。しかし、更に見て行くと、ガスの元火は消されていない。そのとき何か予感がしたと言います。中に入りましょう」  秋月は玄関で靴を脱ぎ、家の中に入った。  中は板敷のホールで、中央に木製のテーブルや椅子が置かれている。突き当たりはベランダで明るい空の下になだらかな蓼科山が見え、なかなかの景観だった。 「二階の書斎からの眺めはもっと素晴らしいですよ。現場はこの浴室です」  と、秋月が言った。  ホールの左側に階段があって二階に通じている。階段の向こうに浴室と便所が並び、捜査係の多くは浴室のあたりで仕事を続けている。  進介は開け放しにされた木製のドアから中を覗いた。  まず、ゆったりとした洗面台が見える。その横に曇りガラスの引き戸が開かれ、クリーム色のタイルを張った四角い浴槽が見える。屍体は運び出された後で、浴槽の水も抜かれていた。 「浴槽の向こうに短かいパイプの手摺りが見えるでしょう。犯人はあの手摺りを利用したのです。つまり、羽目板の裏面に細工をして、電線を引き、あのパイプに結び合わせたのです」 「……電線」  進介は思わず息を呑んだ。 「どうです。恐ろしい企みでしょう。この浴室の中は電気浴槽に改造されていたのです。被害者は浴槽に入り、何かのときあの手摺りをつかむと、瞬間に電流が濡れた全身に伝わり、その場で死んでしまいます。そのとき、大量の電流が流れるので、家の安全器が切れてしまったのですね。でも、そのために、被害者の死亡時刻がはっきりしました。書斎にあるデジタル時計が止まったままになっていたからです。時計は二十一時五分で停止していましたよ」 「そんな細工をしたのは……」 「六山代造なら、浴室の羽目板を外し、元通りにするぐらいのことは簡単でしょう。少なくとも、吊り天井を作るよりかはね」  秋月はそう言って海方を見た。 「うう……聞いているだけで感電しそうだ」  と、海方は斑《まだ》らの顔を歪めた。 「最初、発見されたとき、被害者は浴槽の湯につかっていて、左手で手摺りを握りしめた状態でした。家の中にいたのは被害者だけで、今のところ他の者が出入りした形跡はありません。家にある履物、鞄などの手廻り品、浴室に残された衣服は全て勝畑の所持品だと思われます」 「院長はいつも週末にはこの別荘で過していたようですね」  と、進介が言った。 「そうです。冬場は別荘を閉めますが、今月一杯は別荘を使う予定だったようです。ここは静かで空気も良いですからね。仕事と静養にはとても良い場所ですね」 「ここへ来るときは、いつも一人なんですか。例えば、誰かに仕事を手伝わせるというようなことは」 「まだ、それは確かめていません。そのうち、病院の関係者がやって来るでしょう。今、東京じゃ大変な騒ぎになっていますよ。電話だけじゃ、確かな情報は入って来ていません」 「乙羽佐織が来ていたはずだがの」  と、海方が言った。 「……院長の秘書ですか?」 「そうだ。週末は蓼科で仕事をすると言っていた」 「病院に連絡したとき、乙羽佐織の名は一度も出ませんでした」 「乙羽の自宅には連絡してみたかの」 「……まだでしょう」 「小湊君は乙羽の電話番号を知っていたの」  言われなくともそのつもりだった。進介は部屋を横切ってバーのカウンターの上に置いてある電話の方に急いだ。  佐織は電話には出なかった。念のために勝畑病院のダイヤルを廻すと、今日は休みで出勤していませんという素っ気ない返事が返って来た。  進介は元の場所に戻って、海方に首を振ってみせた。海方は秋月の話を聞いていて、あまり期待していなかったように軽くうなずいただけだ。秋月は進介が戻って来たのを見て、安心したような表情になった。海方だけが相手では、夢遊病者と話しているようで頼りない気持だったのだろう。 「……勝畑は昨日の金曜日、午後四時に病院を出ています。そのまま蓼科へ向かったとすると、新宿から中央本線で茅野まで特急で約二時間半、バス十分で徒歩十分。途中で食事をしたとしても八時には別荘へ着くことができます」 「蓼科に来るときは、いつも車は使わないんですか」  と、進介が訊いた。 「知り合いの連れがあるとか、特別なときでないと車は使わないと、病院では言っています。自分で車を運転するのはあまり好きじゃないようですね」 「自分の家には何と言って出たんでしょう」 「自分の家といっても、現在、住み込みの家政婦だけしかいませんが、金曜日の朝、勝畑はいつものように、週末は蓼科で過ごすから月曜の夜まで帰らないと言って家を出たようです」 「確か、勝畑の奥さんは他の病院に入院中でしたね」 「それも調べました。昨年の春、一人息子を亡くしてから奥さんは精神障害が起こって、ずっと精神科の病院へ入院しています。勝畑は一週に一度ぐらいの割で、奥さんを見舞っているようですね。最近では四日の午前中、その病院へ行っています」 「別荘で食事はしていなかったのですね」  と、進介が訊いた。 「ええ、珈琲ぐらいは飲んでいた形跡が残っています」 「勝畑は一人でこの別荘に来たのですね」 「今のところ、連れがいたという痕跡はありません。今、蓼科署の係が勝畑の足取りを捜査しているところですが、まあ、今迄のところ、勝畑は病院を出てそのままここに来て、六山代造の仕掛けた罠に掛かって殺された、その線は動かないと思いますよ」 「じゃ、やっと事件も終りですね」 「今度こそは間違いがないでしょう。おや、海方さん、何か不満がありますか」  海方は手で自分の喉を絞めるような恰好をしている。 「なんの、千秋楽、結構だ。ただ、もう少し良い気分のとき終わってもらいたかったがの」 「そう、気分が良ければ、すぐ乾杯ができますのにね」 「いや、乾杯はともかく、頭が揺れ続けていて、少しも廻転しねえ」 「……廻転すると、どうなります」 「もし、勝畑が秘書の乙羽とここに来ていたら、というときのことが考えられる」 「……海方さん、さっきも乙羽佐織のことを気にしていましたね。勝畑が乙羽と一緒だった可能性があるんですか」 「大いにある。とすると、多分、こうだ。勝畑は世間をひどく気にする男だから週末、秘書と一緒に列車へ乗り込むようなことはしまい。乙羽とは別別にここで落ち合う」  揺れてはいるが海方の頭は、要点だけはきちんと押えているようだ。進介は海方の疑惑に気付いて緊張した。 「なあ、勝畑はここで愛人と落ち合うんだ。すると、三通りになるはずだ。その一は、勝畑が先《ま》ず浴室に入る。と、今の状態が起こるの。次に、当然乙羽が先に入浴する場合も考えられる」 「……すると、佐織が被害者に?」 「第三、二人で一緒に浴室に入る。と、多分、死者が二人になる」 「…………」 「これまで、一連の殺人事件で、こんな不確かな犯行があったかな。筒見は六山を確認した上で刺した。一圓は筒見と対面して撃っている。こう考えるとな」 「しかし……六山は先に死んでいるのですから、多少の不確かさがあったとしても仕方がないでしょう」 「うう……それは、妥協だの。だが、俺達は犯人に妥協することはねえ」 「すると、これは六山の仕業じゃないとでもいうのですか」 「六山は別の手を使っていたかも知れない。まず、バーを調べる」  海方はふらふらとバーの方に歩いて行き、小ぢんまりしたカウンターの前に坐り、酒瓶が並んだ棚を見廻していたが、指紋係を呼んで、ブランデーの瓶を指差し、指紋を採るように言った。その仕事が終ると、別のウィスキー瓶を指定し、自分はブランデーの栓を開けてグラスに注ぐ。 「うう……」  海方はグラスに鼻を寄せ、指に着けて舐《な》めてみる。しばらく小首を傾《かし》げ、残りのブランデーを喉に放り込み、次はウィスキーの方に取り掛かる。  一見、酒に入った毒を見分けるような仕種《しぐさ》だが、進介は海方の心がすぐに読めた。海方はアルコールが欲しくなったのだ。その証拠に、ジュースやシロップ類に対しては一向に毒見をしようとする気配はない。海方の疑惑はただの口実なのだ。 「小湊君、見ていねえで君も手伝え」  海方は自分だけの飲酒を隠そうとして進介に命令した。  海方が実際は事件の終了を黙認していることが判ると、進介も気が楽になった。 「じゃ、僕はそこにあるバーボンが怪しいと思います」 「よし、どんどんやれ。しかし、これは危険な仕事だから、充分注意するように」 「判りました」  しばらくすると、玄関のあたりで人の動きが変わった。  見ると、勝畑病院の外科部長、柳矢祐次と、院長秘書の乙羽佐織、事務長の福本と看護婦長の田中留美子が連れ立って到着したのだ。     五  佐織はバーの丸椅子に腰を下ろしている。  海方と進介がその前に坐り、三角の形に向き合っているが、佐織は意識して進介の方を見ようとはしない。 「うう……という結果になりましたが、どう申してよいか」  海方は本物の毒が廻っているように見える。濁った目だけ見ていると、とても長くは生きられそうにもない。 「こういう最後になると予感したことがありますか」 「いえ……一度も」  佐織は蒼白な顔色だった。言葉は静かだが、膝の上に置いたバッグを持つ手が小さく震えている。 「院長は自分の死を予感しているようなところは?」  海方がいい加減な発音で面倒臭そうに訊く。 「全くありませんでした」 「昨日は院長と一緒じゃなかったのですか」 「違います」 「週末の予定ではそのようでしたでしょう」 「でも、一緒ではありませんでした」 「なるほど、予定というのは、時折そのようには行きませんな。私なども、今頃は仕事をしている予定じゃなかった。御蔵島でのんびり寝転がっているはずでした。折角、島まで行ったのに、半日もいないで呼び戻されたというわけです」  佐織は余計なことは言うまいと決意しているようだった。だが、心は絶えず進介の方に向いているのが感じられる。 「半日でしたが、素晴らしい島だということは判ります。あなたも、今度、ぜひいらっしゃい。しかし、この高原も気に入っています。仕事が終ってもすぐ帰りたくない気分——というようなことはどうでもいいが、あなたは昨日、どこにいらっしゃいました?」 「……ずっと病院にいました。勤めを終えてそのまま、家に帰りました」 「今日はお休みだったのでしょう」 「ええ。ずっと家にいました」 「今日の予定は?」 「何もありません。家にいて、病院からの電話で呼び出されました」 「なるほど……おや?」  海方は階段の方を見た。秋月が柳矢と一緒に二階へ登って行くところだった。 「……ちょっと、失礼」  何を思ったのか、海方はカウンターに両手を着いて立ち上がり、ふらふらと二人の後について行った。海方の姿が見えなくなってから、その意味が判った。進介と二人だけなら、佐織は言えないことでも言うと思い、自分はいなくなったのだ。 「なぜ、正しく言わないんですか」  佐織は海方のいなくなった空間を見ているだけだった。 「昨夜おそくには、君は家にいなかったのを知っている。僕は君のところに電話をした」 「……だったら、訊くことはないでしょう。ちゃんと知っている癖に」 「僕が? 僕が何を知っているんです」 「……ひどいわ。呼び出しておいて」 「君は、御蔵島へ行くのを断わった。そのことかね?」 「その後よ」 「……その後?」 「ええ。あなたは仕事が終ったから、すぐセブンホテルへ来いと言ったわ。とても、強引に」 「変だな……いや、そんなはずはない。今、聞いたでしょう。僕がアパートに戻ったのは十二時過ぎ。四時には家を出て海方さんと御蔵島へ行って来た。仕事は終ってなんかいない」  佐織は初めて進介の目を見た。強い視線だった。 「その電話で、君はセブンホテルへ行った?」 「ええ。あなたの名で、部屋が予約してあったわ」  聞き捨てにできない言葉だった。 「いつまで待った?」 「今朝まで」 「……それは、本当に僕の声だった?」 「いいえ、伝言でした。電話は警視庁だと言って、小湊は今外出中なのでそう言伝《ことづ》てを頼まれたと言ったわ」 「僕はそんな言伝てなど人に頼んだことはない」 「でも、それはどういうことなの?」 「判らない。誰かが何かの理由で君を騙《だま》したんだ」 「わたしはその通りにしただけよ」 「院長との約束は?」 「すっぽかしたわ」 「じゃ、昨夜、僕のところへ電話をしたのは君だったのか」 「電話には誰も出なかったわ」 「湯に入っていたんだ。……それで、今日は?」 「……もし、昨夜あなたがセブンホテルへ来てくれて、あなたの本心がちゃんとしていたら、今日この別荘へ来て、院長に全てを話し、病院を辞める気でいたわ」 「判った。君に変な電話をしたのはどんな……」  進介は言葉を切った。今迄、見えなかったが、佐織の左耳の下に赤黒い筋が見えた。 「それ、傷じゃないか?」  佐織は咄嗟に手を当て、その部分を髮で隠そうとした。 「……何でもないわ」 「いや、傷だ。何で付けた?」 「……院長に叩かれたの」 「ひどいことをするじゃないか」 「わたしがそっとカルテを見て、あなたに浜元司のことを教えたのが判ってしまったの。院長は警察に密告したとひどく怒って……」  それなら、進介が無理に強要したのだ。進介が慰めの言葉を探しているとき、二階の方が騒がしくなった。  秋月が両手に書類の束を持って、二階から駈け降りて来た。秋月は田中留美子と話している三河課長に書類を見せた。 「勝畑幸一の遺書が書斎から見付かりました」 「ほう……」  三河が顔を輝やかす。 「ざっと見たのですが、勝畑はこの事件の精細を書き残していました。これを読めば、事件の全貌が判ると思います」  柳矢が二階から降りて来た。しばらくすると、大音響とともに、二階のてっぺんから海方が転がり落ちて来た。   八章 曲説の奇勝     一  勝畑病院の院長、勝畑幸一の死によって、八人の連続殺人事件の輪が完結した。  事件の全貌は勝畑が残した遺書によって、余すところなく明らかにされている。  勝畑の遺書は蓼科にある別荘、樹洋荘の二階の書斎デスクの引出しの奥深くから見付かった。書類はワードプロセッサーによってきちんと作成されていた。それによって、最後の被害者である勝畑は、最初の被害者、六山代造の手によって殺害されたことも明らかにされた。  樹洋荘に集合した捜査員はホールに集まり、秋月の読む勝畑の遺書にしばらく興奮が収まらなかった。  勝畑幸一の遺書  今、勝畑病院の外科D号室に端を発した、特異な「リレー殺人事件」とも言うべき一連の連続殺人事件について、その真相をここに書き留める。  事件における私の役割は、八人の関係者をまとめる指導者であり、演出家であり、相談役であった。私はこれまで六人の殺人を見届けた。近いうち、もう一人が死に、私もその被害者の一人に加わり、この仕事は完全に終了するはずである。  事件の責任者として私は事件の遂行を見届けた後、ここに全てを書き残す理由は、警察の捜査の負担を軽くするため、また、誤った判断によって、第三者に容疑が及ぶことを防ぐためでもある。  最初に、事件の本筋をはっきりとさせておきたい。この一連の事件で、第一の被害者の加害者は第二の被害者であり、第二の事件の加害者は第三の被害者となる。そして、最後、第八の被害者の加害者は、第一の被害者なのである。つまり、一連の事件における八人の被害者は、実は八人の加害者でもあったのである。加えて八人は全員、自分の死を願望していた。  事件の関係者、ないしは参加者は、私を含めた全員八人であった。殺人の順序も最初から定められていた。つまり、死の順序は六山代造、筒見順、立田一圓、香野阿由美、船水栄一郎、浜元司、尾久フサの順であり、最後に私がフサを殺し、六山が生前に仕掛けた罠に掛かってその私が殺されるのである。現在のところ、六山がどんな罠を仕掛けたか私は知らない。しかし、六山はきっとうまくやったと思う。参加者のほとんどは自分の死に方を知らされていない。これは、少しでも死の恐怖から逃れるためである。従って、私がどんな死に方をしたとしても、その罠を仕掛けたのは六山以外にはいない。最初に、このような被害者と加害者との関係をはっきりとさせておこう。  この計画は、全て勝畑病院のD号室で行なわれた。D号室に入院した患者の全てが、死を望んでいたことは不思議な奇縁とも言うべきだったが、病院の入院患者に将来の望みを失なった者が集まるのは世間で思うほど奇跡的な出来事ではないだろう。しかし、最初、私はD号室の全員がこの計画に参加するとは思わなかった。  事の起こりは、尾久フサ、筒見順、六山代造の密談を私が小型録音機で傍受したことに始まる。  荒川に住む尾久フサは、座骨神経痛のため九月の初めからD号室に入院していた。六山代造が同じ病室に入院したころには、フサの容態は快方に向かっていて、いつでも退院することができる状態だったが、フサは持病の喘息《ぜんそく》を理由にして一向に退院したがらなかった。その理由はフサが独り住まいの老人で、入院していた方がずっと生き甲斐を感じていたからである。  フサは実際小まめに患者の面倒を良く見、看護婦にも評判だった。人手不足のときに、フサはずいぶんと役に立ったようである。  一方、六山代造は十月の中頃、路上で吐血して病院へ運び込まれた患者だったが、自分や家族のことは一切口にせず、一時は記憶喪失症を装っていたほど病院には迷惑な男だった。吐血は急性の胃潰瘍によるもので、手術をするにも身元引受人がいない。しばらく容態を診ていたが、病気は精神的な気苦労が引き起こしたものらしいということが判ってきた。  一つには六山の身元をはっきりさせたいこと、また一つには六山のどんな心の葛藤《かつとう》が病気にどう影響しているかが知りたくて、私は尾久フサのベッドに小型録音機をセットしたのだ。フサはどの患者にも気さくに話し掛けるので、たまたま隣のベッドだった六山と談合する可能性が充分に考えられたからである。  私は時折、録音機のテープを回収しては二人の談合を聞いたのだが、最初のうち六山はフサに声を掛けられても、碌《ろく》な返事をしなかった。しかし、筒見順が血塗《ちまみ》れで運び込まれてからは事情が変わってきた。  フサは六山の重い口を開かせることを忘れ、自分の息子のように筒見の面倒をみるようになった。筒見としてはそれが煩わしいに違いなかった。筒見は六山と同じように、最初はフサに対して無愛想だったが、フサはそんなことに関係なく筒見の世話を焼いた。何日かすると、さすがに筒見の心も解け初め、そうなると、春の雪を見るのと変わりはなく、終いには自分の方から逆境の苦しさをフサに語り、フサの同情に声を殺して嗚咽《おえつ》することもあった。  筒見は二年ほど前にも同じような状態で病院へ担ぎ込まれたことがあった。外傷とともに、麻薬中毒の症状があった。私は傷がある程度固まったところで、知り合いの専門家のところへ廻そうとしたのだが、当時、外科の看護婦だった乙羽佐織の熱意に動かされ、筒見の治療を続けた。その結果、筒見は驚くほど短期のうち、中毒を克服することができた。奇跡的とも思える回復は、筒見自身の強力な精神力も認めないわけにはゆかぬが、それに加えて佐織の献身的な看護があって可能だった。それ以来、私は佐織を深く尊敬するようになったのだ。  筒見は宮崎市の寺の三男として生まれたが、東京に在学中、ふとした弾みで暴力団に関係し、その幹部に収まった。私は暴力団の内部には疎《うと》い人間だが、フサに話しているときの録音テープを聞いて、その非情さと柵《しがらみ》の強さ、無謀さとあくどさに改めて驚きを味わった。今、ここでそれ等を述べる必要はないが、筒見はここを退院すると、すぐもう一人藤上千次という若い男を殺害しなければならないということまでフサに打ち明けていた。  すると、それまで黙秘を続けていた六山代造が、ある日、急に身の上話を始めたのだ。今迄、鬱積《うつせき》していたものが爆発した感じで、二人を相手に六山は多弁になった。  それによって、六山の職業は大工だということも初めて判った。自分では良い腕だと自慢しているが、身を持ち崩したのが賭博《とばく》であった。あるとき賭博の負けが重なったとき、高利を考えずに借りた金が、知らぬ間に二倍三倍になってしまった。その利息を払うための借金が重なり、終いには家を取られ、妻とも別れ別れになって世間から身を隠さなければならなくなった。六山は言った。 「血を吐いたとき、死んでしまった方がどれほど幸せだったか判らない。俺はこの先、こんな身体で良いことがあるとは思えない。俺が死ねば嚊《かかあ》に保険金が入るだろうから、それで借金を返し、女一人だからどんなにでもやって行けるだろう」  それを聞いてフサも言う。 「一刻も早く死にたいのはあたしも同じ。これから退院したところで喜んで来てくれる者など一人もいない。そのうちに足腰が弱って、家の中で野垂れ死ぬのを待つばかりだろうから」  次は筒見の言葉である。 「俺も何人も人を殺して来たから、これ以上生きたいとは思わない。今度も死ぬ覚悟で暴れたのだが、とうとう死ねなかった。不思議なもので、今迄、何度も死のうと思ったが、人は殺せても自分は殺せない。全く因果なことだ」  それを聞いていた六山が本気で言った。 「じゃあ、頼むから俺を一思いに殺《や》ってくれないか」  筒見はせせら笑った。 「そりゃ、殺るのは簡単だが、ご免こうむる。死刑になるのは本望だが、それまでに警察の取調べや刑務所暮らしを考えるとぞっとしない。万一、死刑にならず、又、娑婆《しやば》へ戻されるようなことがあったら一大事だ」  すると、フサが女だてらにびっくりするようなことを言った。 「じゃ、その死刑をわたしが執行してやろうじゃないか。あたしは力がないから刃物は使えないが、筒見さんならピストルが手に入るでしょう。それを使って一思いにどんぐらいのことはできると思う」 「……じゃ、あんたが刑務所暮らしをしなければならない」 「いや、あたしなら六山さんに殺ってもらいます。六山さんは腕の良い大工でしょう。六山さんが殺される前に、わたしの家にわたしを殺すような仕掛けを作って置くことができませんか」  そのときから、三人の頭にその計画が離れなくなったようだ。以来、三人の謀議は夜中に行なわれ、恐らく賭博好きの六山の提案だと思うが、謀議の目眩《めくら》ましとして花札が使われたので、夜勤の看護婦も、花札に隠れてそんな密談が交されていたことに気付いた者は一人もいなかった。ただ、D号室でそれを知った患者がいた。浜元司である。  浜は胃癌の疑いがあり、胃の組織を切除して検査するために入院していた。後になってそれは良性のポリープで癌の疑いはなくなったのだが、浜自身は絶対に癌だと信じていて、医者が手術をしないのは癌が他の臓器へまで拡がり、切除することが不可能だと思い込んでいた。悪いことに、浜の家族は誰一人、元司の病気を心配する者がいなかった。元司の妻は病院の電話連絡にはいつも留守だった。担当医の話では、家族の誰も元司の入院さえ知らない、冷たい家庭であるということだ。  ある夜、三人は浜元司が寝ていると思い、密議を始めたのだが、浜は横になっていただけで、すっかり三人の計画を知ってしまった。浜はこの危険な計画を聞いても、誰にも報らせず、反対にこの謀議に自分も加えて欲しいと申し出たのである。  最初、それを聞いたフサはびっくりしたようだったが、よく考えるとこういうことは仲間が多い方が恐くなくて良いと言い、計画に加わることを許諾したのである。そして、翌日になると参加者は一人増え、計五人になった。  五人目は井舞一夫こと、噺家《はなしか》の立田一圓で、一圓は最初から浜と親しくしていた。  一圓は自分が有名でないことを恥じてか、病院では芸名を使わず、本名で押し通していたが、落語好きの浜は一圓のことをよく知っていて、陰では師匠師匠と一圓を立てていたのである。  一圓は浜の癌ノイローゼを助長させた張本人でもある。一圓は浜と親しくなると、自分の病状を精しく説明し、浜の病状もそれと一致していると吹き込んだのである。一圓こそは正真の胃癌を切除したばかりで、どういうわけか病気に精しく通じていて、治療方法や投薬から自分の癌を言い当てていた。しかし、そこは素人で、浜の病気を癌としたのは、確かな根拠があってのことではなく、相憐れむ同病者が欲しかったためだと思われる。  浜はその一圓に話を打ち明け、計画の仲間に加えたのである。  後で再考すると、そのとき一圓はその計画を実際のものとは思わず、洒落か冗談だと考えていたのではなかったか。噺家の世界ではかなり過激な冗談が通用しているようだ。実際、計画が実行に移されると、仲間から逃げたのは一圓一人だけで、その点から見ても一圓が本気であったか否かは疑わしい。いずれにせよ、参加者は一圓を含めて五人になったのである。  船水栄一郎と香野阿由美の二人が心中未遂事件を起こし、病院に運び込まれたのは、五人の計画が固まる以前であったが、私は早晩、この二人も謀議に参加するのではないかと睨《にら》んでいた。香野阿由美が問題で、この患者には心中を憧憬する潜在意識が見えたからである。  私の推論は当たった。船水の意識が戻ったとき、すでに阿由美は父親が強硬に連れ去った後だったが、二人の間には心中は遂行するまで何度でも敢行するという約束が出来ていた。船水は阿由美と秘密の交信をする方法も定めてあった。フサはそれを船水から上手に訊き出して、二人が仲間に加わることを勧めたのである。  そして、いよいよ私の出番が来た。  私にも死への強い願望があったことを告白しておこう。  昨年春、私は交通事故で一人息子を亡くした。いや、実際は私の手で殺したのである。  息子は二十四歳、有名医大を首席で卒業し、同附属病院の研修医を勤めるようになったばかりだった。私は息子の将来を信じ、生活にも何の不満もなかったが、災厄は一瞬にして何もかもを破壊してしまった。  忘れもしない四月一日の夜、息子は帰宅途中の路上で、居睡り運転のダンプカーに接触した。逆上した私は前後の思案もなく、息子を勝畑病院に運ばせ、直ちに執刀した。無論、肉親の執刀は初めてだった。私は落着いていたつもりでも、肉体が応じなかった。なぜ、あのときに限ってそうなったか、今思い出しても納得できないのだが、私はごく基本的なミスを犯し、息子を死なせてしまった。  手術を手伝った柳矢君は、無論、それと知ったに違いないが、絶対に口には出さず、陰で看護婦達にも緘口令《かんこうれい》を敷いてくれたようだ。  その後のことは述べるに忍びない。妻は息子の死のショックで精神的な障害を起こし、現在は廃人同様の姿で入院したままだ。私は前途の希望も消え、息子と妻への償いのため、死だけを考え続けている。一時、この酷い現実から逃れるため、若い女性の身体を借りたこともあるが、肉欲は私を救う手段にはならなかった。だから、フサ達の謀議を傍受したときから、私もそれに加わる決心を固めていたのだ。  私はフサを呼び出し、録音したテープを見せて、もし私も加えないなら、警察に報告すると脅した。フサは最初、なかなか承知しようとしなかった。フサや六山、筒見などに較べ、院長の私を同格として考えられないようだったが、今の境遇を話してやると、フサはやっと納得した。そのとき、脅迫として使ったテープは蓼科の樹洋荘の書斎の引出しに保管してある。警察は事件の証拠にすることができるはずだ。  フサ達が私の参加を承諾したときから、私は計画の指導者となった。  実際、私が加わらなかったら、この計画は恐らく半分も完成しなかったことだろう。彼等の計画は杜撰《ずさん》だった。彼等はただうまく相手を殺す手段だけを考え、被害者と加害者が生ずるであろう特殊な心理に立ち入ることができなかった。更に重大な欠陥は警察の介入を深く考えないことだった。これは、基本的には自殺者の集団であるが、同時に殺人者の集団でもある。それを警察が見逃そうはずはなく、私達は世界的に有名な日本の警察庁の活動を充分計算に入れなければならないのだ。  私の設計図にはまず、警察に対する応接に苦心が払われた。私はその計画に没頭した。そして、出来上がった設計図に遺漏はないはずだった。  生命を助ける立場にいるはずの私が、なぜ殺しの集団に加入したのか。それには、私が病者だから、と答えるしかない。  これまで、私は数多くの臨終に立会って来たが、回復が不可能な患者に対して、医師が点滴や人工呼吸を続け、患者に苦痛と死の恐怖だけを与えている現状に深い疑問を持っているのである。いみじくも、フサが「足腰が弱って、家の中で野垂れ死ぬのを待つばかりだ」と喝破《かつぱ》した通りである。少なくとも、将来のない人達に対して、私はかねがね適切な時期を選んで死を与えるべきではないかと考えているのである。  その所信を実行するためにも、私はこの計画に参加したのだ。  私は出来上がったリレー殺人事件の設計図を更に検討し、次の如き箇条に整理し、全員の参加者に示し、これを守るように言い渡した。  一、自分が課せられた任務は必ず遂行すること。  これは原則である。この原則を明白にしておかなければ、どんなに緻密な計画ができていても全員の死は不可能になる。無論、自分の死を望む者だけの集団であるから、その覚悟は固いはずだが、私は計画の決行に当たり、厳しくこの原則を守るよう全員に要求した。筒見順はこれに対して、他人を殺せば自分が殺され易くなる。生への本能的な執着が弱まり死を悟ることができるものだと言い、その必要性を強調した。  一、計画は絶対に秘密厳守すること。  これも欠かすことのできない条目である。このことが第三者に知れれば、たちまち警察に伝わり、計画の完遂は困難となるからである。同時に、勝畑病院の外科D号室との関係を極力秘密にするようにも付け加えた。しかし、一番目の六山代造が、迂闊《うかつ》にもポケットに病院の薬袋《やくたい》を残し、すぐ刑事が捜査に来たときには前途多難を感じたが、僥倖《ぎようこう》にも立田一圓は事故で死んだ。一圓の違背は皮肉にも反って一時、警察の目をD号室から逸らす役目を果たしたのである。被害者が香野阿由美、船水栄一郎に及んで、警察は再びD号室に注目することとなったが、そのとき、すでに計画は結末を迎えていたのである。全て、私の計算通りの運びであった。  一、殺害の順序。  これは、全員協議の上で決まった。六山代造は自分の死後、確実に人を殺す仕掛けを考えたと言い、一番手を申し出た。他に、そのような仕掛けを思い付いた者がいなかったので、まず一番の被害者は六山に決まった。二番は筒見で私が推した。最初は大切であるから、確実に相手を倒すことのできる実力を買ったのである。船水はどうしても阿由美を自分で手に掛けたいと言った。これは無理もない心情である。一圓、浜元司、尾久フサは、自分を殺す者を知らぬ方が楽だという。結局、その順序は私が秘密裡に決定し、自分を殺す相手を知りたくない者には、自分が殺す相手をだけ秘密裡に指名することにした。番に当たった者は、自分の任務を遂行したとき、電話でそれを私に報告し、次の番の者には私から指令する方法を取った。警察で被害者が確認され、まだテレビ新聞の報道が流れぬうち、次の被害者が出たことがあるが、それは前述の手続きによったためである。  一、被害者と加害者は協力し合うこと。  この場合、加害者は自分の願望を叶えてくれる者であるから、これは当然であろう。最初の被害者、六山代造が真赤で異形《いぎよう》な帽子を冠り寒い季節にシャツ一枚の姿で殺されたことが謎めいていると報道されていたが、帽子は広い競馬場の中で筒見が探し易いためになくてはならぬものであり、シャツ姿でいたのは筒見の刃物を通し易くするため、六山が意志して上着を脱いでいたのである。その六山に、私も樹洋荘のスペアキイを渡しておいた。無論、六山が自由に樹洋荘へ出入りし、私を殺す仕掛けを作るのに協力したのである。同じ理由で浜元司は船水栄一郎の車のキイを、尾久フサは浜の部屋の鍵を事前に所持していたのだ。香野阿由美の場合でも特に説明することはないだろう。阿由美は無防備な裸の状態で殺されたが、相手の腕を振り解くでもなく、わずかに断末魔の苦痛から、相手の背に爪を立てただけだった。  自分が死の目的を遂げるために他人を殺す。と、簡単に言うものの、実際となると普通の人間がたやすく人を殺せるはずはない。七人の中には最後迄、人を殺すてだてが考えられない者がいた。  浜元司と尾久フサがそれだった。  謀議が完了し、八人が決行を契約したのは十月二十五日であったが、その後になって浜は相手の船水を殺すことができないと相談に来た。船水は香野家から渡された金で念願の車を買い、ほとんど車に乗って動き廻っている。因《ちな》みに、浜は運転ができないのであった。  浜に毒ガスの方法を教えたのは私である。私はそれを戦争直後、軍に関係していた某医師から聞いて覚えていた。当時としてはそれら特殊な薬物を入手することは困難であったが、現在はその事情も変わった。優秀なる科学捜査研究所の所員なら、その毒ガスの種類を難なく突き止めると思うので、ここで改めて述べるまでもなかろう。  とにかく、先きを急がねばならぬ。私はこの書類は計画が実行された時点で、院長室のワードプロセッサーを用い作成を開始したが、音に聞く特殊犯罪捜査課の活動はめざましいものがあり、予想を上廻る早さで捜査の手が私のところに伸びて来た。もはや、私が容疑者として逮捕されるのは時間の問題で、一刻の猶予もならぬのである。  さて、尾久フサの場合も浜元司と同じで、浜を殺す方法が判らなかった。私はフサが茶の市で働いていたことを知っていたので、このときもすぐ浜の殺害方法を思い付いた。浜が相談に来たとき、自分の日常生活を話していったことも役に立った。私はフサの家を訪れ、茶の市が忙しいときを狙って挨拶に行き、河豚《ふぐ》の毒を盗み出すように指示したのだ。と共に、浜が入浴する時間も教え、浜の家に忍び込む段取りなども教えた。  私がフサの家へ行ったのは、別の目的もあった。私は薬局から毒物を持ち出し、それをフサが持っている喘息時の頓服と掏《す》り替えなければならなかった。無論、フサが自分の役目を果たす前、喘息発作が起こらないという身体の状態を見て取った上でだった。  さて、七人はそれぞれに病院を出、機会を待つこととなった。  決行は十一月三日。六山代造がこの世の見納めに、曲垣《まがき》賞を見ておきたいという希望によって、その日が決められたのだ。そして、筒見順の手でリレー殺人事件がスタートした。  一、他人を巻添えにしてはならない。  考えてみると死にたいときに死ぬことのできる人間は幸せである。贅沢《ぜいたく》でもある。私達はたまたま恵まれた死を約束させられているのであるから、任務を遂行するとき、他人に被害を与えるようなことがあってはならない。例えば目的の一人を殺すため、家に火を放って他家に類焼を及ぼしたり、近くに他人がいるところで強力な爆薬を使用するなどの方法を使ってはならない。更に、他人に殺人の容疑が掛かるような方法も避けなければならない。そのためには、自然な状態で、自分の指紋を現場に残し、不必要な隠蔽工作をするべきではない。  一、苦痛を伴う殺人方法を避ける。  人が死に到るには苦痛と恐怖が付きまとう。それは医者である私が最もよく承知しているが、できることなら、なるべく幸せな状態が続いているときに一思いに死にたい。一圓やフサが自分を殺す相手を知りたくないと思うのも、不安と恐怖を少しでも避けるためであった。しかし、これは難しい注文になりそうだったが、各自工夫を凝らして、結果的にはどの殺人もこの箇条を満足させることになった。その点でこの箇条を付け加えたことは成功だったと信ずる。すなわち、六山は最期に幸運も手伝い、生涯の夢だったであろう万馬券を手にした瞬間に死に、筒見順は自分が感動した歌を愛する女性の声で聞きながら死んだ。一圓の死は事故だったが、計画通りにいけば、久し振りに妻と会い磯を散策中に射殺されるはずであった。阿由美は愛人の胸の中で愛の頂上で死に、船水は愛車の中で昏倒した。浜元司は美食に満腹して河豚の毒に痺《しび》れ、尾久フサは夫の位牌を寺に戻した後、美しい御蔵島の自然の中で息が絶えた。フサが飲んだ毒は、最も苦痛が少なく確実なものを選んで私自身の手で喘息時の頓服と掏り替えておいたものであった。そして、最後になったが、私は六山代造の手並みを信ずることにしよう。六山はきっと完璧にやってくれると思う。警察の捜査が厳しいため、最後の私は尾久フサの死までを確認することはできなかったが、すでに、計画が完遂されたことを信じている。私はこの手記を完成し、樹洋荘に行って六山が苦心した仕掛けで最後の望みを達することになるであろう。  以上、六山代造に端を発する一連の殺人事件について、その発端から経過、そして、これから一日足らずのうちに起こるべき終局まで、その真実を述べた。  最後に、この事件を担当した警察官、及び世間を騒がしたことに対して、深い謝罪の意を表し、この手記を終ることにする。 十一月六日 勝 畑 幸 一(署名)     二  ぎゃっという悲鳴。  次に、ずしんという響き。続いてううんという唸り声。  いくら疲れて熟睡していても目が覚める。進介はびっくりして飛び起きた。隣のベッドは空だった。 「……海方さん、どうしたんですか」  空のベッドの向こうから、二目と見られぬ海方の頭が顔を出した。ぼさぼさの髮と無精髭《ぶしようひげ》の間、土色の顔にところどころ赤い斑点が浮き出し、額が紫色に腫れ上がっている。昨日、船と飛行機と酒に一度に酔い、二階の階段から転落した結果、出来上がった顔だった。 「なに、大丈夫だ。悪夢に魘《うな》されただけだ。ベッドに寝ていたことを忘れて、落ちたのだ」  気が付くとカーテンがほんのりと明るい。時計を見ると六時を廻っている。 「小湊君も一緒に泊まってくれたのか」  海方はベッドの上に這い上がってあぐらをかき、あたりを見廻した。ここが樹洋荘だということが次第に判って来たらしい。 「そうです。昨夕、海方さんは相当酔っていて動けない状態でした」 「……そうだった。バーの酒を全部毒見をしてああなった。体調も最悪だったの」 「……じゃ、毒見というのは本気だったんですか」 「半分は本気で、半分は只の酒が飲めると思った」 「結局、バーに毒は仕込まれていなかったようですね」  海方は返事の代わりにげっぷと言い、額にそっと手を当てた。 「連中はどうした?」 「昨日のうち、全部帰りました。外にパトロールの巡査がいるだけです」 「病院の連中は?」 「柳矢外科部長と、乙羽佐織、福本事務長と田中看護婦長が残って、徹夜で仕事だと言っていました。死亡の通知や葬儀の段取りや何かで大変だったようです」  そのとき、ドアがノックされた。進介は急いでワイシャツを羽織ってドアを開けた。佐織が心配そうな顔で立っていた。 「今、大きい音がしました。何かあったんですか」 「いや……」  進介が口籠《くちごも》っていると、後で海方の弱弱しい声が聞こえた。 「なに、ご心配なく。今、御蔵島の断崖から突き落とされた夢を見ただけです」 「でも、お顔の色が優れませんわ」 「なんの、生まれてから一度も顔が優れたことなどありません。ただ、今は少少、昨日の傷の上を打って、血がにじんではいますが」 「薬を持って来ましょう」 「いや、薬の匂いが苦手でしてな。それよりも、この匂いはモカでしょう」  進介は言われて、かすかな珈琲の匂いに気付いた。 「ちょうど、今、入れているところです。お持ちしましょう」 「なんの、こちらから出向いて行きますよ」 「じゃ、ホールに皆さんおります。この部屋のシャワー室が使えますからお使い下さい」 「いや、石鹸や歯磨きの匂いは珈琲に禁物です」  口も漱《すす》がずに珈琲を飲む気でいる。  進介がざっとシャワーを浴び、ホールに出ると、ぼさぼさの髮のまま珈琲をすすっている海方の背中が見えた。  海方の前に柳矢、その両側に福本事務長と田中留美子が向き合っている。佐織は進介の顔を見るとガス台の方へ歩いて行った。  進介は柳矢に勧められて海方の横に腰を下ろした。正面のガラス窓の向こうに、高原の東の空が紺色を帯び始めている。海方はしみじみと遠くを見て、 「こりゃあ、美事な朝景色ですな。黒い空に青味が掛かりました。こんな朝を迎えるのは初めてですよ。この別荘はこれだけでも大した価値です」  柳矢は顔を和《やわ》らげた。 「これからは空気が澄みますから、毎日この景色が見えます。まあ、山間《やまあい》ですから日の出は遅いのですが、まだドラマチックに景色が変わります。二階の書斎からの眺めはもっと展望が開けてなかなかのものです。後でご案内しましょう」 「それは嬉しいです。私などは寝ていろと言われればいつまでも寝ている質《たち》で、もっとも私の家の窓からは朝目を覚ましても朝日どころか、昼まで太陽が見えません」 「死んだ院長も朝の景色が好きでした。寒いのによく窓を開けていましてね」 「判りますな。院長は几帳面な方でした。朝は早かったのでしょう」 「おっしゃる通りです。その性格ですから、今度の計画も最後迄成し遂げることができたのです」 「私達はやれやれで、こう呑気にすることもできるようになりましたが、あなた達はこれからが大変でしょう」 「そうなんです。まあ、今は気を張っていますがね。これから、福本事務長と田中看護婦長にはすぐ病院へ帰ってもらわなければなりません。乙羽さんも院長の奥さんが入院している病院へ行き、奥さんの容態を見ながら院長の死亡を報らせる仕事があります」 「なるほど。もうお別れですか。お名残り惜しいですな」  海方の濁った目は豊満な留美子の胸から離れない。 「僕ももう仕事を済ませ、追っ掛けに病院へ戻ります。よろしかったら鍵をお預けしますから、もう一晩、お泊りになりませんか」 「うう……そうしたいところですが、本部では私達を待っていますので」  そこへ、佐織が進介に珈琲を運んで来た。  それをきっかけに、福本事務長と留美子が立ち上がる。佐織は二人を外まで見送りに出たが、すぐ戻って来た。  柳矢は進介が珈琲を飲み終るのを待って立ち上がった。 「では書斎へご案内しましょう。ご来迎《らいごう》までちょっとありますが、それまでの景色を見て下さい。院長への供養になるでしょう」  進介はわざと少し遅れ、残った佐織に、昼過ぎ本部へ電話をするようにささやいてから二階へ上った。  柳矢の言う通り、書斎のベランダは広く、わずか一階の差とは思えないほど眺望が開けている。しかし、海方は窓外には目もくれず、柳矢に言った。 「あなた、もしかして、院長と乙羽佐織との件を知っておいでじゃなかったですかな」  柳矢は不思議そうな顔をして海方を見た。 「……ここへ来たのは、乙羽さんが傍にいちゃ、まずかったからなんですか」 「ほう……さすがに鋭い。その通りです。で、今の質問ですが」 「昨夜、院長の手記を読んで、ははあと思いました」 「その以前は?」 「……院長はああいう方でしたから、素振りにも見せませんでした」 「だが、あなたは知っていらっしゃった?」 「しかし、事件はもう終ったんでしょう。院長の名誉でないことをほじられては私達も迷惑しますよ」 「なるほど、それは悪かった。じゃ、話題を替えましょう」  海方は進介の方を向いた。 「昨夜、君に訊いておくのを忘れた。一昨夜、佐織はどこにいた?」 「この樹洋荘に来ることになっていましたが、実際には来ていませんでした。僕に呼び出されてセブンホテルに行き、朝迄そこにいたと言っていました」 「誰に、だと?」 「僕にです。でも、僕はそんな電話など掛けた覚えがありません」  海方は指を組み合わせた。ようやく指の骨がかきっと小さな音を立てた。 「そう。柳矢さん、ご安心なさい。警察じゃ捜査のため、独身女性をホテルへ呼び出すような真似は絶対にしませんからな。しかし、これで、何かが気に食わなくなりましたの」 「まあ、お掛けなさい」  柳矢は椅子を勧めた。 「刑事さん、頭の傷は大丈夫なんですか?」 「頭の中身も大丈夫かと言いたそうですね。なに、多少頭が曲っていても、この事件もひん曲っていますから問題はありません」 「しかし、刑事さんはさっきから済んでしまった事件を変に突付いているみたいですよ。乙羽さんは立派な女性だと思います。ホテルへ行ったのは、何か理由があるのでしょう。乙羽さんを呼びましょう」 「いや、そのまま」  海方は手を挙げて柳矢を制した。 「別に、乙羽さんがどうのと言っているわけじゃあない。怪しいのは勝畑さんの方でね」 「……院長が?」 「左様。実は昨夜、ベッドに横になりながら、ずっとこの一連の事件を考えていました。なに、酔った頭ですから立派な考えなど泛《うか》ばない。ただ、一番最初、事件に接したときの印象を思い出していたのです。ありきたりですが、事件ならその発端、人なら初対面の印象が大切。そのときまだどんな先入観もない。心が白紙の状態ですからの」 「……それで?」 「最初、競馬場で見た六山代造の屍体、それが持っていた薬袋から、初めて勝畑病院へ出掛け、院長と会ったときのことを思い出していたわけですが、何とありきたりな考えはそれなりに勝れていまして、色色なことが見えだし、最後には悪夢となって……」 「崖から突き落とされたのでしょう」 「わはははは。さっきの話が聞こえましたか。いや、その通りで、そのきっかけになったのが初対面のときの勝畑さんの言動でした。そう、ちょうどその日、あなたと乙羽さんも病院に居合わせた。覚えていますか?」 「覚えていますよ」 「先ず、私は勝畑さんに、競馬場で殺された被害者のポラロイド写真を見せたものです。あれも妙な事件で、殺しの手口から犯人の見当は付いたのですが肝心な被害者の身元が判らない。被害者がメモ代わりに持っていた薬袋の切れ端が唯一つの手掛かりで。これだとしても六山が道で拾ったものやも知れない。勝畑病院へ行ったのも言わば当てずっぽうで、成算があったわけじゃあなかったが、勝畑さんは六山の写真を見て、私には見覚えがある、こう言ってくれたものです」 「そうでしたね」 「でも、すぐ名前まで思い出したわけではなかった。最初、勝畑さんは同室で被害者と仲良くしていたお婆さんのことを連想し、それから被害者の名をたぐり出そうとしていたのです。お婆さんの名はすぐに思い出しました。先《ま》ず、フサという名。これは仮名の二字だから思い出し易かったですかな。続いて勝畑さんは尾久という姓に辿り着いたのです」 「……そうだったかな」 「そうでしたよ。小湊君は覚えているだろう?」  進介もそのときの記憶は鮮やかだった。何しろ、特犯での最初の事件だ。六山代造と尾久フサは手帳に書いた最初の被害者の名だ。進介は言った。 「僕はその名を手帳に書き込みました。確かです」 「そう、勝畑さんが六山の名より先に、尾久フサの方の名を思い出した。六山の名を言ったのは、勝畑さんでなく、柳矢さんでしたよ」  柳矢が慎重にうなずいた。 「そうでしたね。六山は僕が主治医でしたから、よく覚えていたのでしょう」 「すると、勝畑さんのこのときの言葉は、頗《すこぶ》る怪しい、とは思いませんか?」 「怪しい?」 「私にはとてつもなく怪しいと感じますね。なんとなら、勝畑さんが書いた手記の中に、リレー殺人事件の計画を実行に移すときの心得として、いくつかの箇条を書いていましたが、その一つ〈計画は絶対に秘密厳守すること〉という項目があって、警察が勝畑病院のD号室に目を付けることをひどく恐れていたでしょう。その計画はD号室にいる全員が、一人一人殺されてしまうものですから、これは当然です。にもかかわらず、勝畑院長はD号室の尾久フサの名を口にしていたのですよ。私達、警察の前で、しかも、事件が始まったばかりの段階で、ね」 「…………」 「勝畑さんが作った箇条を、先ず、自分から破ってしまったのです。しかも、努力して尾久フサの名を思い出していたのです。ね、こんなことが信じられますか。だから、勝畑さんが怪しいと言ったのです」 「……言われると、確かにそれは箇条違反ですね」 「そうでしょう。つまり、ここに相反する二つの状態が現れたのです。これは困りますな。二つをすっきりさせるためには、どちらかが虚偽でなければならない。先ず、勝畑さんの発言、これは私も小湊君もその現場にいて、この耳で聞いたことですから、真実とします。すると、残る方が怪しい。つまり、勝畑さんが作った箇条の方が疑わしくなります。私は勝畑さんが箇条を作っている場面を実際に見たわけではありませんからな。こう考えて行くと、あの手記そのものも怪しい。手記は手書きではなく、ワードプロセッサーを使って作成されていました。ワードプロセッサーを使えば、手蹟を残すことがないのです」 「でも、院長の署名がありました」 「そう、署名はあったが、正式を期するなら、遺言状のように立会人の署名も必要でしたな。そう、私が六山の写真を勝畑さんに見せに院長室へ行ったとき、院長は机の前に坐って、山のように積まれた書類を前にし、碌に中身に目を通さず、片端から署名したのを覚えています。ははあ、この人はおおらかで署名に無防備な人だと思いました。ですから、ちょっと工夫すれば、ワードプロセッサーの白紙の用紙に署名させることはそう難しくはなさそうですな」 「すると、あなたはあの手記が偽物だと言うのですか」 「そうです。何よりこの遺書が、二階の書斎のデスクの奥深くから発見されたのも気に入らねえ。犯人がこれを勝畑さんに見付からねえようにそんなところに入れたとしか思えない。手記が偽物とすると、勝畑さんはリレー殺人事件の参加者でも指導者でもなく、何も知らない第三者で、手記を偽造した犯人の手で殺されたのです」     三 「……それが、悪夢なんですか」  しばらくして、柳矢が当惑した顔で言った。進介も同じ思いだ。だが、海方の酔った脳がこねくり出した不安なものより、しばしば悪夢が現実になる事実の方が薄気味悪かった。 「そう、しかし、かなり面白いでしょう」  と、海方がのろのろと言い、初めて窓の外に目を移した。  空は紺から紫へと大掛かりな変色をしているところだった。近くの緑はまだ本来の色を現わさない。 「ねえ、刑事さん。僕はこれから、忙しいんですがね。悪夢の話は面白そうですが、後日に願えませんか」 「いや、あとわずかです。それに、私は物忘れがひどい。この機会を逃すと思い出せなくなってしまいそうでしての」 「じゃ、朝食をしながらにしましょう。僕もお腹が空いた。今、乙羽さんが用意しているところです」 「ううむ。朝食は有難いが、ホールででしょう」 「いや、ここに運ばせます」  柳矢は立って院長のデスクの電話を取り、三人分の朝食を持って来るように言った。デスクの横は書棚で、天井迄医学書で埋め尽されている。 「しかし……悪夢のことは別として、尾久フサを殺したのは院長ですよ」  柳矢はデスクから、銀製の煙草ケースと灰皿を海方のいるテーブルに移した。 「ほう、どうして?」  と、海方は呆《とぽ》けたように言う。 「昨夜のテレビのニュースで言っていました。院長の指紋が、尾久フサの家から発見されたそうですね」 「そう。しかし、指紋はありゃいい、っていうもんじゃありませんでの」 「ほほう……刑事さんは捜査本部の発表とは違う意見を持っているんですか」 「なんの。意見などというものではありません。それが、悪夢なのですよ。その悪夢によると、尾久フサの家から発見されたコップに勝畑院長の指紋が付いていた。しかし、だからと言って、院長がフサの家へ行ったという証拠にはならない」 「ほう、なぜです」 「コップの指紋など、コップを持てばいくらでも付く。院長が別の場所で持ったコップを犯人が持ち出し、フサの家へ置いて来る、という単純な方法があるからです」  柳矢が笑った。軽蔑の笑いだった。 「しかし、刑事さん。お宅の警察じゃ、持ち運びできるようなコップからだけではなく、フサの家からも院長の指紋が見付かったと言っていましたよ」 「ほう……」 「こんな大切なことを知らなかったんですか」 「こりゃ、驚いた。フサの家からも、ね」 「さあ、もう悪夢などお仕舞いにしましょう。基本的なデータを知らない曲説など聞いている閑はありませんのでね」 「いや……ちょっと待った」  海方はそれでも落着いて、進介を振り返った。 「いや、それを知らないわけじゃない。確か、応接室のドアのノブにも院長の指紋が見付かった、だったな?」 「ええ、ドアの両側のノブに、ご丁寧にも右と左の指が全部揃って残っていたそうです」  進介の言葉を聞くと、海方は両手の指を組み合わせた。今度は指がかなり良い音を出した。 「そうだ。羽田空港に着いて、小湊君が電話で三河さんからそう教えられた。いや、忘れちゃいねえ。それを聞いて、蓼科へ来る気になったんだから、確かだ」  海方は尖った顔を柳矢の方へぬうと伸ばした。 「私はまた、あんたがフサの家から院長の指紋が見付かったと言ったもので、ちょっとどきりとしただけです」 「しかし、テレビではそう言っていましたよ」 「そりゃ、アナウンサーが省略したからでしょう。普通の人が聞けば、フサの家からでも、フサの応接室のノブからでも、そう変わらない。しかし、私達商売人が聞くと、それは大変な違いだ」 「どう違うのです」 「つまり、情報は詳しいほど良い。しかし、指紋は多けりゃ良いというもんじゃない」 「……それは、どういう意味です?」  そのとき、ドアがノックされて、佐織が朝食を運んで来た。  牛乳、トースト、ベーコンエッグ、生野菜。佐織はテーブルの上に手際良く並べていく。  海方は目を細めて、 「昨日の朝食は和風でしたから、今朝は洋食が欲しいと思っていたところ。ところで、乙羽さん、院長の癖について、ちょっと訊きたいことがあります」 「はい、何でしょう」  海方はのっそりと立ってドアの傍に寄った。佐織に見えるように身体を開き、海方は右手の指を五本とも鉤にしてノブをつかんで見せた。 「もしかして、院長はドアを開けるとき、こんな指の形をする癖がありませんでしたかね?」 「いえ、そんな鷲みたいな形」  佐織はすぐ否定した。 「さよう。一名、鷲づかみ。いや、念のためです。そうでないのでしたら結構」  佐織は部屋を出て行った。最後迄、進介の方を見なかった。  柳矢はミルクを一口飲んで言った。 「一体、何の真似ですかね」 「院長がノブに五本の指の指紋を付けたとすると、こういう妙な指の形になる、ということを言いたかったのですよ」  海方は椅子に戻ってミルクのカップを取り上げた。  進介はトーストを口にした。ほど良い焼き工合。ミルクの暖かさは佐織への懐しさを誘う。海方は続けた。 「つまり、ですな。指紋係はフサの家の応接室のドアのノブから院長の指紋を採取した。それまではよろしい。しかし、私はその指紋の付き工合が気に入らなかった」 「……なぜ、鷲みたいな手付きをしたんです」  柳矢はベーコンエッグの皿を引き寄せた。 「三河さんはドアの両側のノブに、院長の右と左の手の全部の指紋が付いていると言ったからですよ。よろしいですか。五本の指が全部密着するようなノブの持ち方をするには、指をああするよりないじゃないかと思うんですがね」 「…………」 「ドアを開けるには、ノブを持って、左か右どちらかに捻ればいい。これは、世界中どんなノブでも同じ。しかし、それには親指、食指、中指を軽く当てるだけで済む。せいぜい、薬指が当たる程度ですな。小湊君、試してみたいでしょう」  言われるまでもない。進介は急いでドアに寄り、ノブを握ってみた。進介の場合、無意識で親指、食指、中指の三本だけがノブに当たった。海方が言った。 「結構。しかし、世の中は広い。多勢の人の中には、鷲みたいな手をしてノブをにぎる人がいないとは限らない。それで、乙羽さんに院長のことを訊いたわけです。答えはお聞きの通り。院長もそんなげじげじみたいな指をしてノブをつかむ癖などなかった。しかし、現にフサの応接室のノブには、院長の五本の指が揃って残っていた。しかも、内側と、外側、両方のノブに、左右全部の指紋が揃っていたという。指紋が多ければ良いというもんじゃない。そうでしょう」 「しかし、指紋の位置がどうあろうと、実際に院長の指紋は残っていたんでしょう」  と、柳矢が言った。 「そう、そこまで否定はしませんよ」 「じゃ、何を否定するんですか」 「ドアを開けようとして今のような指の当て方をすれば妙な手になる。だから、勝畑さんはドアを開けようとしてノブを握った、そのことを否定するんですよ」 「ドアを開けようとしてノブを握ったんじゃない?」 「そうですな。普通、ノブに指紋が残っていれば、その人物はドアを開《あ》け閉《た》てするためにノブを握ったと考えられる。そこが曲者での。指の位置までは注意が及ばない。今、無理な形でなく勝畑さんがノブを握った状態を再現すると、これが一番自然な形でしょうな」  海方はベーコンを頬張ると立ち上がりドアを開けた。そうして、両膝でドアの外側と内側を挟《はさ》むようにし、両手で同時に両側のノブを握った。海方が指に力を入れると、左右の五指は全部ノブに当てがわれた。 「……どうです?」  海方はノブをがちゃがちゃさせた。 「あっ!」  進介が叫んだ。海方がにやっとした。 「つまり、何かの弾みでノブが動かなくなってしまったようなとき、大抵の人はこんな風に身体の前にドアを立てて、強くノブを動かそうとするでしょうな。すると、左右全部の指がこの通りノブに接触するわけですな」  進介は柳矢の顔を見た。柳矢は皮肉な笑みを浮べているだけだった。海方は聞き取れぬほど声を低くした。 「指紋が多けりゃ、いいっていうもんじゃねえ、ってのはこれだ。勝畑さんは院長室のドアがおかしくなったんで、こんな風にノブを握った。柳矢さん、あんたでしょう。ノブを動かねえように細工したのは。勝畑さんがそうしているところを何気なく通り掛かるような振りをしてあんたも工合を見る。休日で建具屋は休み。計画的なんだ。あんたはノブをすっかり取り替えたが、修理と見せ掛けて、あんたが欲しかったのは院長の指紋が付いているノブだった。それを大切に保管し、後になって尾久フサの家へ行き、フサの家のドアのノブと付け替えた。ドアがスチールならこうたやすくはいくめえが、勝畑病院、フサの家、共に木造だった。予《あらかじ》めドアの状態をフサに聞き、この方法を考え付いたのさ。お蔭で、三河さんはまだ院長がフサの家に行ったものと信じている。実にうめえ手だったの」  柳矢の顔からは血の気が引いていったが、表情だけは不敵な笑いを続けている。 「さすが、特犯の刑事さんだ、と誉めたいが、少し遅過ぎたようですねえ。僕の計画はほとんど完了しているんですからね」 「本当にそうだの。しかし、俺はとっくにあんたが怪しいと気付いていた。だが、証拠がないので捕えることができなかっただけだ」 「真逆《まさか》——」 「だったら言うが、二度目に俺が勝畑病院へ行ったときだった。尾久フサのことを訊き出していると、あんたはフサが人を殺したとは思えない。フサは一圓の落語にでも出て来るような、気の良いお婆さんだった、と言った。忘れやしめえな」 「…………」 「この台詞《せりふ》を言うからには、あんたが一圓の落語を聞いたことがあると睨《にら》んだ。しかも、ラジオじゃあない。一圓はテレビに出させてもらえなかったから、勿論、寄席に行って一圓を見たに違いねえ。だとすると、立田一圓は井舞一夫だということはちゃんと知っていたはずだ。にもかかわらず、小湊君が立田一圓という名で勝畑病院に問い合わせると、乙羽さんはそんな人は入院していない。柳矢部長にも訊いたから確かだ、と答えた。そこで、俺はあんたが嘘を吐《つ》いていることが判ったんだ」     四  柳矢は銀の煙草ケースの蓋を払い、煙草を取り出して口にくわえた。 「ほう……シェパードのライターですな」  と、海方が言った。 「あんたも惜しい人だねえ。医者になっていりゃ、きっと名医だ」  柳矢はしゅぱっと音を立てて煙草に火を付け、ライターの焔を海方の方に差し出した。 「こりゃ、どうも……」  海方はケースの中から煙草を二本つまみ、一本を進介に渡した。柳矢は二人の煙草に火を付け、ライターをテーブルの上に置いた。 「こりゃあ、完全犯罪だったんですがねえ。そうでしょう」 「ま、俺がいなかったらの」  海方は口を尖らせて煙を吐き出す。 「すると、遺書を作ったのは?」  と、進介が訊いた。柳矢はにやっと笑った。 「勿論、僕です。残念ながら、院長にゃ一生掛かってもあんな計画は立てられませんよ。あの人は教科書に載っていることは出来ても、創造する頭の持ち主じゃありません」 「なるほど。勝畑病院も今時、勿体《もつたい》ない土地の使い方をしている。それで、甥のあんたが開発を勧めても、絶対に聞こうとはしなかったんですな」 「そうです。僕ならすぐホテルのような病院を作りますよ。昨年、院長が誤まって一人息子を殺し、奥さんを病気にさせてからは、木偶《でく》も同然でした。僕だっていつまで若くはない。自然に院長が死ぬのを待って遺産を襲《つ》ぐのでは、無駄な時間が長過ぎると思ったんです。筒見が入院したとき、銃創を見て警察に密告し、病院の信用を落として院長に病院の改築を勧めようとしたんですが、勿論、そんな手ぬるい方法じゃ物足りなかった。なに、殺すだけなら病院のこと、薬やメスに不自由はしませんが、うまい工合に死んだとしても疑われるのはまず僕ですからね。あれこれ考えていたところ、D号室の謀議を知ったんです。勿論、テープを仕掛けたのも僕、細かな計画や箇条を作ったのも僕。つまり、謀議の指導者は院長ではなく僕だったんです。だから、D号室の全員は僕が尾久フサを殺し六山に殺されると思っていたわけ。しかし、フサは殺しても僕は死ぬつもりはなかった。それ迄には全員が死んでしまったんだから、六山の手に掛かるのは僕じゃなくても契約違反を言い出す人はいない」 「なるほど、うめえの。それで、フサの毒は?」 「最初から毒を頓服だと言い、看護婦の手でフサに渡したんですよ」 「後はフサが旅行に出た留守、フサの家に行ってノブを付け替えて、偽の遺書を作りゃよかったんだな」 「そう簡単には済まなかったんですよ。六山の奴が手抜きをしたんです」 「六山が……電気風呂の罠は六山のじゃなかったのか」 「そうです。唯一の目的は院長の死でしたから、六山に手落ちがあってはいけないと、樹洋荘へ下見に来ました。ところが、六山は吊り天井どころか、転落する階段も作ってはいなかった。とにかく、船水の屍体発見で再び警察がD号室を洗い直しに来たときだったからね。六山が信じられなくなって、急いで電気風呂を作ったんですよ」 「一昨夜、乙羽佐織をセブンホテルへ呼び出したのも君だったんだな」 「そう、電気風呂を作ったのはいいが、佐織が樹洋荘へ行くと知って慌てたね。万一、佐織が浴室に入って死んでしまい、院長が生き残ったら取り返しがつかないでしょう。佐織も殺すにゃ、惜しい女だ」 「佐織に惚れているのか」  柳矢は進介を見て意味あり気に笑った。進介は気が高ぶって、灰皿に煙草の火がうまく消せないでいた。 「そう。あの女は院長とこうなってから、見違えるほど良くなったね。だが、この若い刑事さんのようなんでは佐織が可哀相だ。あの女は元元が陰が似合っている。銀座に店をあてがい、綺麗な着物を着せれば、嫌でも男が集まって来る。あの女は金の卵だ」  進介は我慢ができなくなった。 「あんたは、佐織さんを弄《もてあそ》んだ上に、売り物にしようというのか」 「そうさ。その店は一流だぜ。刑事|風情《ふぜい》の出入りは無理だ」 「ほう、あんたは血迷ってますね。自分の立場がどうなっているか判らない」 「じゃ、教えてもらいましょうか」 「あんたは二人の人間を殺害し、六人もの殺人を幇《ほう》りょ……」  進介は唇を噛んだ。幇助と言おうとしたのだが興奮しているせいか、つい舌がもつれる。 「……逮捕されたのもおなりら」  海方が奇妙な笑い顔になっている。 「小湊君、この男の言い分は後で聞こう。柳矢にれりょう……」  手錠と言おうとしているらしい。進介は内ポケットに手を入れた。だが、指が手袋をはめたように感覚が鈍っている。 「ろうした。はやく、らいほ……」  と、海方が言った。 「……ろうしても、られません」 「られない? このぱか……」  柳矢が乾いた声で笑い、立ち上がった。 「そうなっちゃあ、もういけませんねえ。刑事さん、亀さん、いやさ、亀のこ。あんたは油断のない人だ。佐織の作った朝食まで疑い、僕が口を付けたものから順に食べていたね。だが、それで安心したのがいけなかった。こんなこともあろうと思い、毒を、今吸った煙草の中に仕込んでおいたのですよ」 「たぱこに……」 「しかし安心しなさい。ごく、微量な麻酔薬で、死にはしない代りに、検出もできない。警察はあなた達を毒死ではなく、亀さんの悪夢と同じ、転落死として発見することになっています」 「ろ、ろうしようというのら」 「この秘密を知ってしまったのだから、勿論、生きて捜査本部に帰れるとは思わないでしょうね」  ドアがノックされたが、柳矢は平気だった。佐織は書斎に入り、柳矢にこれから出掛けますと挨拶した。進介は何か言い掛けたが言葉にならず、唇が歪むだけだ。佐織はそれを微笑と勘違いしたようで、軽く会釈を返して部屋を出て行った。  柳矢は平静な顔で佐織を送り出すと、ベランダの窓を一杯に開けた。賑《にぎ》やかな小鳥のさえずりが、冷風とともに部屋に飛び込んで来る。空は鴾《とき》色の夜明けを迎えている。 「どうです。神神しいご来迎が見えるでしょう。あなた達はこの絶景に包まれて死んでゆくという、結構な最期をとげるわけです。こうしましょう。後一分足らずで意識がなくなりますから、まず亀のこの体液をとり出す。僕は医者ですから、それ位のことはわけがない。それを、若くて良い男の刑事さんの下半身に移しましょう。判りますね。警察はあなた達の屍体を見て、二人がどんな関係にあったかが判る仕掛け。亀のこが愛している若い方に乙羽佐織という新しい愛人ができたための三角関係のもつれ、結果、亀のこが無理心中を思い立ち、このベランダから飛び降りるという筋書。悪夢通りの結末で、嬉しいでしょうね。亀のこ」 「れっ……れっ……」  進介は必死で声を立てた。 「絶対に嫌だと言おうとしているんですね、お気の毒に。でも、僕にはそれが一番良いんです」  柳矢はベランダに立った。 「どうです、この朝の太陽の勢いは。まるで、今の僕の気持だ」  柳矢はベランダの手摺りに手を掛け、一歩足を外に踏み出した。  その瞬間。  ばさっ、という音響とともに、柳矢の姿がかき消えてしまった。ベランダもなくなっていた。ぎゃっという悲鳴が、地の底に落ちて行った。進介は直感した。六山代造の仕掛けだ。  すぐ、ドアが開き、佐織が部屋に飛び込んで来た。 「……今の音、悲鳴は?」  海方はよだれを流してだらしなく笑っている。本当は「悪夢が本物になったの」と得意顔をしたいのだろう。そう思ったとき、進介の視界が急に狭くなっていった。     五  少しずつ、あたりが明るくなるとともに、部屋の物音が聞こえてくる。  今迄に経験したことがないほど、爽やかな目覚めだった。頭の中がすっきりし、身体には力が漲《みなぎ》っているのが判る。目覚めばかりでなく、暖かな雲にでも包み込まれて青空に浮いているような、素晴らしい眠りだった。  そのはずだと思う。朝食を充分に食べて、二度寝をしたのだから。柳矢が言った通り、薬は進介に快適な眠りを与え、短時間のうち、綺麗に消えていったようだ。  そっと目を開くと、ベランダの向こうに青空が拡がっている。二階の部屋に床が敷かれ、その上に運ばれたようだ。陽差を見ると、太陽はまだ高くない。朝の光が部屋の奥に迄届き、春のような暖かさだ。深く長く寝ていた感じだが、実際には二時間前後だったらしい。 「……あ、目が覚めた?」  進介が目を開くと、前に佐織の顔があった。朝日を受けている産毛《うぶげ》まで見える近さだった。ずっと心配して、進介を見守っていたようだ。佐織の唇が動いた。 「小湊さん、工合は?」  大丈夫だ、と言おうとしたとき、唸る声がした。すぐ、横に寝かされている海方だと判った。 「……苦しい。胸を、さすって……」  看護婦長の留美子が急いで海方の胸を開き、肉付きの良い手を当てる。  進介はそれを見て、自分だけが大丈夫だと言う気がしなくなった。 「僕も……」  佐織はうなずいて、すぐ進介の胸を開け、暖かな手を差し込んだ。 「み……水……」  と、隣の海方が言った。  留美子はすぐコップに水を運んで来たが、海方は頭を上げようとしなかった。 「動けないんですか?」 「ああ……早く、水」  留美子は困った表情で海方とコップを見較べていたが、やがて決心したようにコップの水を含み、海方の顔に覆い被さった。 「僕も……」  と、進介が佐織に言った。  丸やかで甘い水だった。一度に喉を通すことが惜しく、少しずつ飲んだ。進介は口に水がなくなると、舌を佐織にからませた。  留美子が煙草を吸い付け、海方にくわえさせようとしたとき、ドアが開いて三河課長が入って来た。 「おう、亀さん。やっとお目覚めですね。床の中で美人の吸い付け煙草とは、こりゃ、豪勢だ」 「うう……」 「いくら唸ってもだめ。良い顔色をしてるじゃありませんか。これなら安心だ。さっき、奥さんに電話をしたら、パトカーを廻してくれだと。もうすぐここにやって来ますよ」  それを聞いた海方は、がばと蒲団を跳ね上げて起き直り、 「そりゃいかん。俺は重態だ。面会謝絶だ。嚊《かかあ》を絶対にこの部屋に入れるな」  と、叫んだ。 本作品は、一九八五年五月、小社より単行本として刊行され、一九八九年一月、講談社文庫に収録されたものです。